小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

15. 市場の不自由化を進めた戦後体制


〔1〕敗戦直後はどうだったのか?

(4) 改善されない経済学者と官僚の産業技術認識

 戦後経済調査会の報告書(『改訂 日本経済再建の基本問題』)の日本の産業技術水準についての認識は、依然甘すぎると思います。文中、一旦は日本の技術水準は低く、外国技術の借り入れに依存すると認めておきながら、満州事変以来、つまり1931年以来の努力により、「あらゆる種類の機械類および化学薬品類を一応国内で生産しうる技術を獲得した」、と日本の技術は躍進したと評価しています。

 しかし別なところ(ここ)で指摘した通り、産業技術の基礎である工作機械は、戦争開始に至るまでアメリカからの輸入品に頼りきりであったのであり、太平洋戦争中に至るまで、部品を規格化し、摺り合せ工程を除いた工場の大量生産体制は実現されることはありませんでした。しかし、日本の経済学者たちが工場の生産現場のあり様を実地に見聞し、或いは職工たちの見識を理解した気配はありません。彼らは、統計書に現れる職工数と生産される紡錘の数だけを頼りに日本の生産性の高さを議論するだけで、一体どのような機械が紡績工場に置かれていて、それらがどの国の製品であって、外来のものと国産のものとの性能の違いはどうかといったようなことについての知識をほぼ完全に欠いていたのではないかと推量します。

 また、彼らは日本の紡績工場の生産性と賃金はインドより高いと評価しているのですが、彼らが紡績工場の女工の悲惨な労働環境(その詳細はここ)に思いを巡らした気配もまったくありません。当時も、そして今日でも、経済学と労働経済学(雇用条件を研究する学問)は互いに独立した学問分野であり、相互の連携はありません。しかし労務契約のあり様を含む労働環境の実態や工場生産技術の具体の改善策を考えないで、ひたすら統計数値を操るのみと言う工場生産性についての議論は、机上の空論でしかない、というのが小塩丙九郎の考えです。

 この報告書は、日本の経済復興の基礎は、「経済の民主化と技術の高度化」にあるとしています。この標題からは、ようやく自由市場主義体制が志向されたのかと一瞬思いますが、しかしそうではありません。「公正なる自由競争のみが唯一の途ではない。結局日本経済の民主化においては金融機関および重要基礎産業の公共化と、経済の計画化と相当強度の国家的統制が必要とせられるのではなからうか。唯その場合、統制の主体たる政府は民主化せられた人民のための政府であって、旧き官僚機構の再現であってはならない」、と言うのです。

  • 日本の経済学者たちは統計数字が好きで、現場の実態に興味をもたない。

  • 日本の経済学者たちが、産業技術と言うことの意味を理解したことは、今まで一度もない。

 統制経済体制は堅持すべきである、とこの報告書中何度も書いています。「旧き官僚体制の再現であってはならない」との行〈くだり〉についての、具体の意味するところは不明です。「強力かつ徹底的な公共的統制」を行える主体は、政府官僚組織以外にはありません。それが「旧き官僚機構の再現」でないとして、それと本質的にどのように違う官僚機構を組織しえるというのでしょうか? それについての具体策は、提示されていません。この問題を指摘しつつ、具体の対案を提示しないというのは、この報告書中に一貫している姿勢です。。

 経済復興の2つの基礎の内の1つとされる「技術の高度化」について、経済学者たちの現実認識が実際にはまことに中途半端であることは別のところ(ここ)で詳しく説明している通りです。しかしこの経済学者たちは、日本の技術者にはセクショナリズムがあり、総合的技術開発ができない体制になっているので、経済学の総合的思考方法を技術者も学べばいいと提言するのです。

 日本には優れた世界水準に近づいた研究技術者たちがいたが、そのことの重要性を経済学者たちが無視して、そもそもそのような技術が日本に存在したこと(その詳しい説明はここ)すら知らないでいて、質を無視して数のみを競う体制を築いたことについての経済学者の反省はまったくなく、技術者たちは経済学者の総合的思想をもてと上から目線を棄てようとはしていません。そして経済学者たちが言う総合的思考とは、官僚と経済学者が協働して行う統制経済体制のことです。自由市場経済体制が競争を産み、競争の中から新たな技術開発が生まれるという近代資本主義の考えを、経済学者たちは戦前、戦中に引き続き、明確に拒否する姿勢を明らかにしたのです。そしてそれが、その当時唯一の国の総合的経済報告書とした採択されたのです。

 20世紀初頭に日本が近代資本主義体制をとることに、最後の引導を渡したのが渋沢栄一であるとすれば(その詳しい説明はここ)、太平洋戦争敗戦時に、日本が近代資本主義体制をとるチャンスを葬り去ったのは、広沢らマルクス経済学者たちだと言えます。

 彼らは本郷にある大学キャンパスと霞が関の官庁の間を行き来するのみであり、頭の先から指の先まで机上の空論を弄するマルクス経済学者たちであり続けました。ここに、敗戦から学ぶ姿は見受けられません。それで、アメリカ占領軍司令部、GHQ、の経済官僚の見解に立ち向かえる道理はありませんでした。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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