小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

15. 市場の不自由化を進めた戦後体制


〔1〕敗戦直後はどうだったのか?

(5) アメリカの日本占領方針の大転換

 アメリカが日本を占領した直後(1945年12月7日)に示した日本への賠償要求の内容は、日本の工業力を大きく削ぐものでした。そこで日本から持ち出すべきものとされたのは、は以下の通りです。

 @ 軍工廠および航空機等製造工場の全工作機械
 A 工作機械製造能力の半分
 B 20造船所の全施設(占領に必要な修理施設を除く)
 C 年250万トンを超える鋼鉄生産設備
 D火力発電設備の半分
 E硫酸工場全部等
 F マグネシュウム・アルミナ製造、アルミニュウム精練・加工工場の全部

 つまり、日本の製鉄能力の3分の1を除く重工業設備のほぼすべて、大規模工場の工作機械すべてと工作機械能力の半分を日本から取り去るというのです。工作機械製造設備が半分残されたのは、日本の工作機械製造技術水準が、アメリカにはるかに及ばない低いものであるということを知った上での判断だと思われます。こうして日本に残されるべきは、精々が繊維産業やおもちゃなどの日用品の工場設備だけでいいというわけです。

 日本は重工業産業での製品のすべてを軍需に充てていたのであり、それらを取り去っても、日本人の日常生活の質が低下するわけではないというのが、アメリカ占領軍の方針の基礎となった報告者(『中間賠償計画案』)を書いたエドウィン・ポーレー(石油事業者で大統領特使)の主張でした。アメリカが日本の戦時体制をよく研究していたことが、このことから読み取れます。

  • 戦前の日本の重工業は、国民の生活水準の向上にはまったく貢献するものではなかった。

  • その欠陥をアメリカに逆手に取られ、日本の産業破壊の口実にされるところであった。

 しかし、この窮状から日本を救いだす世界情勢の大変化が起きます。米英仏等と中ソの対立がはっきりとして、アメリカの共産圏封じ込め戦略が打ち出されて、西側自由経済圏の橋頭保〈きょうとうほ〉として日本を位置付けることが構想され、一転、日本の経済復興支援策が採られることとなったのです。中国は、第2次大戦中は国民党が主導しつつ、共産党と協力して対日抗戦体制をくむという、いわゆる国共合作体制でありましたが、1949年には共産党が国民党を内戦で破り、社会主義国としての中間人民共和国を建国して、米英仏等西側自由主義国対中ソ社会主義国との間の東西冷戦が激しくなっていました。

 アメリカの19世紀末以降の長期戦略は、人口が多く、後進国ほど所得の低くない中国をアメリカの巨大市場として育て、支配するということでした。太平洋戦争で日本を打ち負かして邪魔者を排除してアジアで唯一の軍事経済大国となったアメリカは、遂にその目的を達することができるようになったはずでした。しかし中国の社会主義国建国が、その夢を砕いてしまいました。

 しかし、その後の世界政治情勢の急変に対応したアメリカを初めとする連合国の日本占領政策の大転換(いわゆる「逆コース(Reverse Course 或いは 180-degree turnabout)政策」)により、1947年に日本に賠償要求を行わないことが決定され、日本にほとんど無傷で残されていた製鋼設備はそのまま日本にあるがままの姿で残されることとなりました。

 アメリカの新たな世界戦略の基礎的概念の端緒となったのは、アメリカ人外交官・政治学者であるジョージ・ケナンが1946年に本国に送った“長文電報”に書かれたソ連の長期戦略についての分析です。ケナンは、ソ連は資本主義との永続的な戦争を戦う覚悟をしており、資本主義国内にいるマルクス主義者を操ってそれらの国の政府転覆を画策している、ソ連の侵略思想はロシア人民に基礎をもつものではなく、伝統的なロシアのナショナリズムと神経症に根差している、要するに、ソ連は資本主義国との平和共存が可能とはみなしてはいない、と本国政府に警告したのです。


ジョージ・ケナン
〔画像出典:Wikipedia File:Kennan.jpeg 〕

 さらに、ケナンはアメリカ国防省の政策企画部長の席にあった1947年7月に、雑誌(『フォーリン・アフェアーズ』)にXというペンネームで寄稿し、アメリカの対ソ政策は、辛抱強く、しかし断固として、かつ用心深くソ連の拡張傾向(expansive tendencies)を封じ込めるもの(containment)であるべきだと書き、アメリカの対ソ戦略を国内外に明らかにしました。そしてこのことは、直接アメリカの対日政策の変更の根拠となりました。

 その直後、アメリカの賠償調査団の一員として来日したジェームス・カウフマン(戦前、日本で開業していた弁護士で、ジャパン・ロビーの一人)が1947年9月に対日政策のあり方についての報告書を提出し、これがいわゆる逆コース政策の起源となったという次第です。



 カウフマン報告にも基づき、労働組合の結成を積極的に推進するなどして「民主的」、或いは「ケンジニアン的」と呼ばれていたGHQの経済政策は、国力回復を第一とするアメリカ本国政府主導のものに置き換えられました。このほか、ジェンストン報告書(1948年、生産設備の撤去禁止を勧告)やヤング報告書(1948年、単一為替レートの設定を提案;詳細な説明はここ)が合わさって、戦後の日本の経済復興策の基本を定めたいわゆる「ドッジ・ライン」が策定されます。

 ドッジ・ラインとは、GHQの命令を無視して、進行するハイパーインフレ(超高率のインフレ〈下のグラフを参照ください〉)を放置する日本の政府官僚、日銀官僚及び経済学者の連携体制に業を煮やしたアメリカが派遣した、経済学者でもあるデトロイト銀行頭取のジョゼフ・ドッジが、その執行に絶大な指導力をふるった経済政策体系のことです(樽見秀男著『ドッジ・ラインの枠組みと評価』〈2000年、on-line pdf.〉による)。

出典:日本統計協会著『日本長期統計総覧 第4巻』(1988年)掲載データを基に作成


出典:日本統計協会著『日本長期統計総覧 第4巻』(1988年)掲載データを基に作成

 このようにしてアメリカの対日方針が大きく変わる中で、日本に重工業の復興を認めないという方針が変更され、製鉄を先行させる日本の迂回生産構想がアメリカ占領軍、GHQ、によって承認されました。

2017年1月4日初アップ 2017年6月26日最新更新(グラフの追加)
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