小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

15. 市場の不自由化を進めた戦後体制


〔1〕敗戦直後はどうだったのか?

(6) 傾斜生産方式とそのもたらしもの

 敗戦直後の生産活動は、戦時中に蓄えられまだ消費しきっていなかった物資を使って続けられましたが、早晩それらが底を突くことは明らかであり、また、政府財政が破綻状態にある中で、外国より必要物資を潤沢に輸入することは難しいことでした。そんな中、産業の基盤となる鉄材を自ら生産し、各種産業に供給しないことには、日本の産業復活はありえないということについて、多くの者のコンセンサスができあがってきました。消費財生産より生産財生産を優先することは、一見迂遠なようですが、結局は消費財生産拡大に最も有効であると考えられたのです。いわゆる「迂回生産」の発想です。

 当初連合国は、日本の製鉄業再興について否定的でした。日本の再軍備能力を完全になくすという観点から、重工業の復活を認めておらず、鉄が必要と言うなら、鉄鉱石も石炭も産出する中国で日本からの賠償として移設された鉄鋼場設備で生産したものを買えばよいという具合でした。外務省の戦後経済復興策は、アメリカ占領軍に受け容れられませんでした。具体性を欠く外務省作の経済復興策と冷たい連合占領政策の下、日本の将来は見えなくなっていました。

 しかし、戦後の急激な世界政治情勢の変化が日本を救いました。米英仏等と中ソの対立がはっきりとして、アメリカの共産圏封じ込め戦略が打ち出されて、西側自由経済圏の橋頭保として日本を位置付けることが構想され、一転、日本の経済復興支援策が採られることとなり、製鉄を先行させる日本の迂回生産構想がアメリカ占領軍、GHQ、によって承認されまたのは、前項(ここ)に詳しく書いた通りです。

 日本の九州と北海道には多くの炭鉱がありました。戦時中には、朝鮮人を徴用して採炭を行っていたのですが、太平洋戦争が終わるとともにそれらの労働者が帰国し、そして坑道を掘り進むために必要な鉄材が不足していたので、それらの炭鉱は荒れていて、採炭量は以前の1割にまで落ち込んでいました。日本の製鉄所はアメリカ軍によって空襲されることなく無傷で残っていましたし、陸軍が鉄鉱石や屑鉄を蓄積していたものの残りがありましたが、燃料はほぼ使い切っていたためです。

 そして燃料にする石炭を掘ろうにも、出炭量を急に拡大できない状態にはなかったことはすでに紹介したとおりです。困った日本政府は、アメリカから石油を融通してもらうことを考え付きます。ヨーロッパの復興にアメリカの石炭は使われており、日本に割く余力はありませんでしたが、石油ならまだゆとりがありそうなことが分かったからです。

 ここで、アメリカから石油の供給を受け、それを燃料に製鉄所を動かし、そこで作られた鉄材を使って採炭を行い、その石炭を燃料にすれば自国産の資源で鉄を生産するサイクルが完成できるというアイデアです。これは、斜めにした板を石が転げ落ちるように次々に生産を拡大できるというイメージから“傾斜生産方式”と名付けられました。この方法を誰が考え出したのかということは、商工省(経産省の前身)官僚も自分たちだと主張していてはっきりとしませんが、吉田茂首相にダグラス・マッカーサー連合国司令官と談判するように進言したのは有沢広巳であったことは、確かなようです。


1950年頃のGHQ本部
〔画像出典:Wikipedia File:GHQ building circa 1950.JPG 〕

 吉田-マッカーサー会談はうまくいき、急激な石炭増産は困難であるとする商工省官僚らの反対を押し切って日本の製鉄は拡大されました(下のグラフを参照ください)。傾斜生産方式は、敗戦直後の日本の産業インフラの復活に貢献し、1949年には、戦前(1934〜1936年平均)の6割まで鉄の生産は回復しました。

出典:下川義雄著『日本鉄鋼技術史』(1989年)掲載データを基に作成。

 傾斜生産方式が、出口がない状態で頓挫していた日本の経済復興を開始させる力となったことは、高く評価していいと思います。しかし、その案を構想し、政府を動かしたのが有沢広巳らマルクス経済学者であったことは、将来について大きな影響を及ぼしてしまいました。有沢らが主張した統制経済体制、つまり政府官僚が計画し、民間事業者がそれに従うという体制が、日本の経済復興には適した方法であるとの1つの有力な証明になってしまったからです。これで自信を深めたマルクス経済学者と商工省その他経済官庁や日銀の官僚たちは、官僚が市場を管理するという国家社会主義体制をさらに勢いよく推進し始めてしまいました。

 その後、経済学者と官僚たちは、日本の経済が自由な資本主義経済体制のもとにあるという名目上の看板を掲げつつ、実際には国家社会主義体制を可能な限りに追及するという姿勢を固め、それが現在にまで至っています。「現在にまで至っている」という表現について、若い皆さんは反発を覚えるかもしれませんが、戦後の高度経済成長、或いは1990年代以降の経済停滞は、そのような体制の下で進行したものであるということを、ほかの多くのところで、具体的に例を示しながら証明しています。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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