小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

15. 市場の不自由化を進めた戦後体制


〔2〕為替政策の始まり

(1) 1ドル=360円の固定為替レートが設定された

 1941年9月2日にミズリー号上で降伏文書に調印したその直後に、日本は占領軍から日本を軍政下に置くこととし、直ちに軍票の発行を行うと言い渡されました。軍票とは、そもそも軍が発行するいわば領収書で、国が発行する通貨とは本質的に違ったものでした。当時アメリカをリーダーとする連合国は、第2次大戦中にアメリカ、ニューハンプシャー州のブレトンウッズに集って戦後の経済体制のあり様を論じ、世界規模の金兌換〈だかん〉制度(通貨と交換比率が固定された金との交換を保証する制度)を整備することを決めていました。いわゆる「ブレトンウッズ体制」がとられていたのです。

 つまり、連合国の通貨は各国が保有する金を担保とした信用を有するものであったのですが、アメリカ占領軍はそのようなものではなく、単に軍票を発行して、それを日本に通用させると日本政府に通告したのです。それを知って驚いた重光葵外相は翌朝、横浜のグランドホテルにいたマッカーサーを訪れて必至の抗弁を行い、かろうじて軍政の施行と軍票の発行を阻止しました。マッカーサーが、どうしてあっさりと妥協したのかは、今も知られていません。そして、国内では円だけが貨幣として通用するという環境が守られました。

ミズーリー号上の重光
戦艦ミズーリー甲板で降伏文書に署名する重光葵外相
〔画像出典:Wikipedia File:Shigemitsu-signs-surrender.jpg(ミズーリ号かんぱん)、File:Shigemitsu Mamoru.jpg (重光葵外相)〕

 しかし、戦後すぐに、本土にいたおよそ6.850万人の日本人と、中国や戦地から帰って来た兵士を含む合計660万人にのぼる日本人すべてに最低限の生活環境を整えるため、大量の食料や原料の輸入が必要となり、又その資金を得るための輸出が必要となりました。この交易を行うためには、アメリカドルと円との交換比率を決める必要があります。そして、この時、今では誠に奇妙と思える方法が採られました。輸出入品毎に違った為替レートを適用することとされたのです。

 日本が当時輸出できるものと言えば、生糸やその他特産物に限られていました(1946年度下期の貿易計画では、生糸=42パーセント、その他特産物=31パーセント)ので、それら輸出品については、日本の輸出価格が国際市場で通用できるほどの為替レートで定められました。例えば綿織物については、1ドル240円から420円、絹織物については1ドル=315円、生糸については420円、茶については1ドル=300円、競争力の弱い陶磁器については1ドル=600円といった具合です。逆に鉄鉱石については1ドル=125円、石炭については1ドル=178円から267円(何れも、1949年1月現在)といった様子です。つまり、輸出できる商品については輸出できるレートで、輸入する必要のあるものについては、日本が買えるまで円高としたレートでといった具合であったのです(下のグラフを参照ください)。

円/ドル為替レート
出典: 奥和義著『戦時・戦後復興期の日本貿易―1973年〜1833年―』(2011年12月『関西大学商学論集第56巻第3号』蔵)に掲載されたデータを素に作成。

 しかし、当然のことながら、これは敗戦直後の混乱期を乗り切る一時的なものであって、あくまで応急対策としてのものです。この頃、連合国は、日本人を死なせはしないものの、日本の経済復興は考えず、どれほどの額の戦争賠償金をどのような形で獲ればいいかということだけを考えていました。しかし、そこに大きな国際政治の変化が起こります。第二次大戦が終結してすぐに、それまで連合国の構成員として同じ側にあったアメリカ、イギリス、フランスなどと、ソ連が対立関係に入りました。それに中国も国民党を追い出し共産党独裁政権が出来上がって、西側自由資本主義国と中ソ社会主義国との冷戦構造ができあがってきます。そして、アメリカの日本占領政策が根本的に変更され、日本を西側陣営の先兵として安定的に取り込むことを考え、そのために親米的で安定した日本をつくることが必要だとして、日本の戦後経済復興を図り始めました。

 その活動の一環として1948年6月に日本を訪れたラルフ・ヤング(連邦準備制度理事会〈FRB〉調査統計局次長)を団長とする使節団は、日本の経済安定化には、それまでの複数為替レート制を脱して単一レートの設定が必要だとする報告書を作成し、その他の安定化9原則とともに提案しました。この安定化とは、カウフマン報告書(ここ)と軌を一にするものであり、第一に日本経済自身にとっての安定化という意味合いが強いことは当然ですが、同時に、或いはそれ以上に、アメリカの企業にとって、日本との貿易を拡大し、或いは日本市場へ進出する上で、安定した、当時の国際標準(つまり、ブレトンウッズ体制)である単一為替レート制の整備が不可欠であるという、アメリカ側の都合が大きいことに着目しなければならないというのが、樽見秀男他何人かの経済学者の主張するところです。

 日本を西側陣営に留めるために、一方的に好意的な保護を行おうとしたのではなく、アメリカの世界市場戦略の一環として日本という潜在的に大きな市場の開発を自らの経済圏に取り込みつつ行うことこそが、アメリカの本音であったと言ってもいいでしょう。そう合点すると、後の米日政府の為替レート政策の展開も理解しやすくなります。そして激しいアメリカ占領軍と本国政府の議論と検討を経て、1949年2月のドッジ・ライン(詳しい説明はここ)と呼ばれる日本経済復興策の一環として、1ドル=360円の固定レートが決定され、実行されました。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
©一部転載の時は、「『小塩丙九郎の歴史・経済データバンク』より転載」と記載ください。



end of the page