小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク
15. 市場の不自由化を進めた戦後体制


〔1〕敗戦直後はどうだったのか?

(3) 玉音放送の翌日、会議は招集されたのだが、

 日本の敗戦後の立ち直りの第一歩は、早いものでした。玉音放送があった翌日の1945年8月16日に、戦後の経済復興策を検討するために、有沢広巳(ありさわひろみ、;元東京帝大経済学教授)や大内兵衛(おおうちひょうえ;東京帝大経済学教授)、或いは大来佐武郎(おおきたさぶろう;元外務大臣;当時外務省官僚)を中心メンバーとして外務省内に「戦後経済調査会」が立ちあげられ(実際には、有沢は第2回から参加)、その結果は、半年後の1946年3月に報告書『日本経済再生の基本問題』となってまとめられました。

 そして、それを根拠として、日本政府とアメリカ政府の日本の復興策が議論されたのですが、結局この報告書は大きな働きをしませんでした。以下は、どうしてそうなってしまったのかと言うことの説明です。

 外務省が、戦後復興策をつくったのは、日本政府にとっての戦後処理第一の緊急課題が戦争賠償問題であり、それは外務省の所管事務であったからです。日本政府が戦争賠償金を戦勝国に支払う以上、その財源をどのように確保するのかというのは、敗戦後の日本経済と財政がどのように復興されそうかということを想定しなければ検討しようがありません。

 それでは、そうやって始められた調査会は、一体どのような結論を得たのでしょうか? 1946年3月にまとめられたもののを若干修正して9月にまとめられた『改訂 日本経済再建の基本問題』が、東京大学出版会著『日本経済再建の基本問題』(1990年)の中で全文紹介されています。それを題材にして、戦後経済調査会に集まった経済学者たちがどのようなことを考え、どのような結論を得たのかを報告したいと思います。

 これらの経済学者たちは、戦後日本の経済構造を構築するに当たっての基本認識を、自由市場経済によるのではなく、国家計画経済体制によるべきだと主張しています。そして先ず驚くべきは、その現状認識にあります。

 原文通りに復元すると、「利潤追求を原動力とする自由競争は経済の発展を混乱停滞せしむるに到り、生産と消費との間に計画的調整が必要とせられる時代となつた。すなはち自由放任を原則とする上昇期資本主義時代は既に過去のものとなり、19世紀末より開始せられた私的独占資本の段階をも通り越して、世界の経済は遂に国家資本主義の時代すなはち統制され組織せられた資本主義時代に突入したのである」と書いています。つまり、経済の発展を混乱せしめた元凶は自由競争市場体制であり、今やその時代は終わり、国家資本主義体制による統制経済の時代に世界は入ったというのです。

 さらに続けて、「英圏内においては今後も資本主義的自由競争は存続し、殊に戦後の非常事態経過後は可及的自由な経済への復帰が企てられるであらうけれども、その『自由』は計画性の下における制限せられた『自由』となるであらう」とも言います。イギリスやアメリカでも、自由競争は続けられるが、それは国家計画経済体制の制約のもとで許される範囲に限られることとなろう、と先の世界認識を再確認しています。

 もっともこのことは、まったくの的外れとも言えないかも知れません。イギリスで第2次大戦中に行われた総選挙で、意外なことに英雄ウィンストン・チャーチル率いる保守党が負け、社会福祉第一を標榜〈ひょうぼう〉する労働党が政権を初めてとり、完全雇用を実現するためと言いつつ、航空(1946年)、石炭(1947年)、鉄道(1948年)、電力(同)、鉄鋼(1951年)、その他の基幹産業を次々と国有化していったからです。戦争直後の失業率は1パーセントにまで下がっていましたが、戦後不況が起こって失業率が上がることを心配してのでしょう。

 しかし、本土すべてが戦場となることをまぬかれ、世界1の超大国となったアメリカは、第2次世界大戦中に1930年代にあれほどひどい状態であった大恐慌を克服して産業全体が躍進していました。そして東西冷戦の時代に入って、共産主義者や社会主義者についての恐怖感がますます大きくなって、市場を管理して国家統制経済体制をとろうと主張する人々は、圧倒的な少数派に留まっていました。

 独特の世界の現状認識を得た上で、報告書は、戦前、戦中の統制経済体制は、「与へられた課題は、貧弱な資源と生産力の範囲をはるかに逸脱した大規模な戦争経済の充足であつた。我国戦時統制経済の悲劇の真因は此処にある」と認めた一方で、「かくて戦時統制経済失敗の体験はより良き計画経済への指針を与へるであらう」と、書いています。つまり、計画経済体制自体に誤りはなかったが、自分たちを排除した一派が指導した統制経済のやり方間違っていたのであり、今後はうまくやればいいというのです。要するに、俺たちに実権を渡してくれれば、今度は間違わない、と言うことでしょう。この行〈くだり〉を読んだ瞬間に、大きな嘆息が不意に飛び出してしまいました。

 これが、敗戦の翌年に、当時日本最高の経済学者が描き出した、当時の世界の姿です。調査会を代表する有沢は、戦前のドイツに留学したことがあるのみで、イギリスやアメリカの経済社会を見たことがなく、大内に至っては一度も留学の経験はありません。東京帝大で、マルクス経済学を学んだのみなのです。この象牙の塔の住人たちが、第1次世界大戦の時にロンドンに自費で出かけて、そこで経験した空襲の恐怖から、消費財生産を含むバランスのいい産業開発に先ず努めるべきだとの1海軍大佐の発した警告(その詳しい説明はここ)を無視し続けたのです。

  • 戦後の経済復興計画を書いたのは東京帝大のマルクス経済学者たちであった。

  • その流れが現在にまで届いている!

 机上のみで官僚管理の計画経済体制のあり方のみを学んで、その物差しで世界を見るとこのようなことになってしまうということです。そして、当時の日本で、これに対抗する自由市場経済主義、ましてや近代資本主義の合理性について議論する経済学者は1人もいませんでした。もちろん、政府の経済官僚たちはこれらの経済学者と同じ大学で学んだ者であり、計画経済の体現者でありましたから、これらの経済学者の主張にはまったく同意するものであったろうと思います。

 戦時中の陸軍の暗号能力は海軍を大きく上回っていて、海軍の暗号がアメリカに解読されていることも知っていましたが、それでも陸軍が海軍に援けの手を差し伸べることも、或いは海軍が陸軍に助成を頼むこともありませんでした。そうして海軍は天下分け目のミッドウェー海戦(1942年)に負け、山本五十六司令長官を失いました(1943年)。そして日本が敗戦したわけですから、結局のところ、陸海軍官僚にとって国益より派閥益が優先した、と言うことです。

 東京帝大の経済学者も同様です。いずれにしても、中心となる経済学者の派閥、或いは官僚の派閥が交代しただけで、官僚と経済学者が連携しつつ市場を管理するという国家社会主義体制には、何らかの変更を加える考えは、経済学者にも官僚にもありませんでした。そうする必要がないように、彼らはまことにユニークな世界の現状認識を創造したのです。そして今も彼らはその延長上にいる、つまり派閥益を優先しつつ、彼らにとって共通益である国家社会主義体制を堅持しようと努めている、と言うのが小塩丙九郎の認識するところです。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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