小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

14. 日本の第2の大経済破綻


〔3〕日本第2の経済大破綻への道

(1) 世界の構造変化を警告し続けた海軍大佐

 唐突ではありますが、ここで太平洋戦争前に、独り日本の現状を正しく捉え、社会に警鐘を鳴らし続けたある海軍軍人の話をしたいと思います。その男の名前を、水野広徳〈ひろのり〉と言います。日本の軍備拡大一辺倒を批判した水野は海軍大佐だったのですが退職して評論家となり、軍の内部にいては許されない発言を続けました。そうして、太平洋戦争開始12年前の1929年に、「時としては軍備を縮小して其の余れる人員を生産事業に転用し其の余れる経費を産業教育等に振り向けることに依って、却って国防力を増す場合もあるのである」と指摘しています(水野広徳著『無産階級と国防問題』(1929年11月8日東京朝日新聞掲載、日本図書センター刊『日本平和論大系7 水野広徳 松下芳男 美濃部達吉』〈1993年〉収蔵より)。

水野広徳
水野広徳
〔画像出典: Wikipedia File:Mizuno Hironori.jpg〕

 水野はさらに、「(第1次世界大戦での)独逸〈ドイツ〉の屈伏たるや海陸の武力戦に敗れたるにあらずして、連合国の経済封鎖に由る軍需原料並びに国民食料の欠乏に因〈よ〉るものである。斯くの如く戦争が機械化し、工業化し、経済力化したる現代に於ては、軍需原料の大部分を外国に仰ぐが如き他力本願の国防は、恰も〈あたかも〉外国の傭兵に依って国を守ると同様、戦争国家としては致命的弱点を有せるものである。極端に評すれば斯くの如き国は独力戦争を為すの資格を欠ける」とまで言っています。この指摘は、重大です。なぜなら、水野はここで、「日本も同類だ」と強くほのめかしているからです。

 水野は、日本の経済の弱点は、@物資の貧弱なる点、A技術の低劣なる点、B主要物資が生活必需品にあらざる点の3点を挙げ、「而〈しこう〉して技術の低劣を除くの外は改善すべからざる日本の不治の弱点である」とし、技術の改善を最初にすべきとの示唆まで行っています。しかし、この「技術の低劣なる」ということについて当時の軍官僚たちが反応した気配はありません。

 1920年代末、日本の航空技術は欧米先進国に10年遅れていると言い、第1次世界大戦以降の戦争は航空機が主要な役割を果たすこととなり、やがて船からも飛行機を飛ばすことができるようになるであろうし、アメリカが100機の航空機で木と紙でできた東京中の住宅を破壊し尽くすことは容易だと予言しています。しかし、これは水野の空想ではなく、水野が実際に第1次世界大戦時の空襲下にあったロンドンにいて、堅牢な構造ゆえ、建物の被害が少なかったことを見た上で抱いた恐怖でした。

 第1次世界大戦以降、戦争は軍人のみの戦いではなく、一般市民をも無差別に巻き込む総力戦になるのであり、「次の戦争は東京も、大阪も、火の雨降ると覚悟せねばならぬ」(1924年に『中央公論』で発表した『「戦争」一家言』より)のだと述べています。そして、この水野の予言は21年後に的中することになります。

 そして、水野の最も重要な指摘は以下の点です。1920年代末にあって、水野は、「世界の土地を漁り尽して領土欲に行詰まりたる列国は、今や領土的=侵略主義的=帝国主義より、経済的=資本主義的=帝国主義に転進しつつある。〈中略〉即ち(現代の資本主義国家は)資本主義に依る経済の優越を争いつつある」と言います。

 アメリカは、南北戦争(1861-65年)を終えて体制を立て直した後、再びアジア進出を図りました。キューバを巡るスペインとの戦い(米西戦争:1898年)にも勝ち、それによって植民地のフィリピンを得て、アジアへの確かな足がかりを確保しました。しかし、イギリスと同じように当時の世界で残された植民地化されない最後の3国、日本と韓国と中国については、多くの文化的な人民が住んでいるところであり、とても武力で制圧できるところではないと冷徹な判断をしていました。それに無用の戦いを挑むより、むしろ巨大な消費市場と理解して、それに対する優越的な貿易関係と権益を得ることが現実的だと考えたのです。

 優越的な貿易関係とは、それらの国から関税自主権を奪い、自国の工業製品が自由に市場に流れ込むことができるようにすることであり、また同時に、それらの国が自国での産業開発をしづらくすることでした。1900年、アメリカが中国の門戸開放を宣言したのも、この考えによります。また、権益とは、上海などを治外法権とするとともに、鉄道の施設権を得ることでした。当時の鉄道は、単なる交通機関でなく、沿線についての行政権を行使できるようなものでもありました。

 消費市場として育てるというのであれば、それらの国民から大きな反感を買っていてはことがうまく運びません。アメリカとイギリスは弱体な政権(清王朝)の官僚を恫喝しつつ、国民に対しては日本の脅威から守る勢力であるとして自国のイメージの醸成に努めました。これが植民地獲得を目的とした旧型の資本主義から脱却し、アジアの市場支配を目的とする新型の資本主義にアメリカとイギリスが転換した姿でした。この2国のアジア戦略の大転換を行う中で、日本は中国に対して旧型帝国主義の脅威を見せることによって、彼らの主張の正当性を効果的に支持したことになります。

 19世紀が終わり、20世紀の扉があいたとき、世界の先進大国の潮流は旧型帝国主義から新型帝国主義に転換していました。遅れて世界への扉を開けた日本は、旧型の帝国主義に則って朝鮮と日本への侵略を狙うロシアの脅威から日露戦争(1904-05年)に勝利することにより逃れた後は、正しくこの世界構造の変化を認識して、日本自身がどうすれば新型帝国主義国になれるのかと真剣に考えるべきでした。それが、1920年代の水野が強く主張したことでした。しかし水野の意見に真摯に耳を傾ける軍官僚も経済官僚も、或いは法学者も経済学者も、いなかったのです。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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