小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

14. 日本の第2の大経済破綻


〔3〕日本第2の経済大破綻への道

(2) 自由な産業体制は一度も求められなかった

 こと産業体制については、「大正デモクラシー」といったような自由に向かう時代は、明治維新直後の一瞬以降、一度もありませんでした。僅かに、1929年10月のウォール街での株大暴落から始まる世界恐慌のあおりで大不況に陥ったなかで、その対策として当時の政権にあった民主党の浜口雄幸内閣の下で井上準之助蔵相は、金本位制への復帰を図るほか、市場機能の需給調整に委ねる自由主義的経済政策を採ろうと図った時期があります。しかし、実際に政府が実行しようとしたのは、革新官僚と呼ばれる軍官僚と連携するグループの代表格でもあった商工省幹部官僚の吉野信次(1931年商工省次官就任)や岸信介(吉野の部下、1935年に工務局長。一旦満州に異動後、1939年に次官に就任)が指導した、ドイツの産業合理化運動の影響を受けた企業合同やカルテルの結成などといった組織化による合理化政策でした。

 革新官僚の重要メンバーであった岸信介は、学生時代に北一輝〈きたいっき〉に心酔していたと自伝(『わが青春』)に書いていますが、北の思想は、国家社会主義と言うものであり、明治憲法(大日本帝国憲法)の精神に反して「天皇の国民」ではなく「国民の天皇」であるとし、言論の自由、基本的人権の尊重、農地解放、普通選挙、財閥解体、私有財産の制限、華族制廃止等の主張を掲げていました。しかし、革新官僚たちの考えの重きは、このうち国民本位的な部分にあったというよりは、国家主義ということにあったに違いないと思います。例えば、北を崇拝していたという岸も、後年総理大臣になってからは「大衆」と言う言葉を使い、その対話相手のジャーナリストから、その上から目線をたしなめられています(岩川隆『巨魁−岸信介研究−』〈1977年〉による)。「革新」の枢要は、政党政治家から官僚の手に国の統治権を取り戻すことにあったと考えていいでしょう。

 つまり、革新官僚たちが求めたのは、国家計画経済体制の強化です。そして、このうちカルテルの結成は実現され、1931年にカルテルに従うことを関連する企業すべてに強制する重要産業統制法が制定されます。これは、その時々に応じて企業の「適正利潤」や「適正価格」を政府官僚が恣意的に決定する権限を与えるものでした。そして、市場条件は政府官僚が権限的に決定する仕組みです。一方で自由主義経済体制構築の提案があっても、政府の施策実行責任者はそれを黙殺して国家計画経済体制に走る、これと同じようなことは、これよりずっと以前にもありました。1906年の鉄道国有法の制定に係る各界の動きです(詳しい経緯はここ)。

 1870年代から1930年代に至る70年間にわたって、政府官僚は一貫して近代資本主義経済体制の実現を忌避してきたのであり、官僚指導の下での統制経済体制を志向してきたのです。そして景気が後退して不況期になると、救済を求める産業界がそのような官僚主導の政策を望んだということが裏にあります。つまり、近代資本主義経済体制に反するこのような政策は、政府独りの勝手な行動であるというより、企業経営者たち自身も望んだ、いわば“官民合同政策”であったということが重大です。

 しかし、政府官僚の動きは、1940年代になると企業経営者たちの思惑をさらに超えて、ほぼ完全な国家統制経済体制を目指すこととなりました。日本の19世紀末から20世紀前半に至る国家体制は、欧米が目指した近代資本主義社会ではなく、そして、労働者階級による共産主義革命を目指した社会主義社会でもなく、国家官僚が主導する国家社会主義体制でした。だから、同じ国体を目指したドイツやイタリアと連携できたのです。これら3国の同盟の背景には、これら3国が同じ経済社会体制を目指していたということがあります。そして日本とドイツは、ともに市場獲得を目指す新型帝国主義ではなく、植民地獲得を目指す旧型帝国主義の考えをもっていたということでも共通しています(新旧帝国主義についての説明はここ)。

 日独伊三国同盟の背後にはイデオロギーの共有・共感が底にあるのであり、単なる方便上の軍事同盟ではありません。日本とドイツ・イタリアの同盟は必然であったのであり、軍官僚や外務省官僚が同盟の相手を間違ったというわけではありません。ついでに言えば、相互不可侵条約を結んだソ連とも、国家社会主義体制をとるということで共通していました。当時の日本は、どのようにしても、アメリカやイギリスと連携をとれる体制にはなかったのです。

 当時雑誌(東洋経済新報)を主宰していた石橋湛山(たんざん;戦後に総理に就任)は、中国へ武力で進出してその市場を独占するということを止めて、世界の先頭に立って世界市場の門戸を開放することを求める方に政策を転換すべきだと述べています(1936年9月19日社説)。その主張はまことに正しいのですが、その前提として、先ず自国の経済体制を変えないことには、世界市場で先進国と競争できる低廉で高性能の工業製品を生産することは、できることではありませんせんでした。政治・外交方針と経済体制は、決して分けられるものではありません。

石橋湛山
石橋湛山
〔画像出典: Wikipedia File:Tanzan Ishibashi 2.jpg 〕

 これは、陸軍を力の背景とする山県有朋〈ありとも〉へ伊藤博文から実権が移って以来のことではありません。民権主義者の権化〈ごんげ〉のように言われる大隈重信も、失脚して下野して政党人になる以前の政府官僚(大蔵卿)であった時代に、三井財閥の誕生と育成に大きく寄与しています。そして、もう一つの巨大財閥である三菱(当主:岩崎弥太郎)が、元々後藤象二郎の計らいにより土佐藩の庇護を受け、維新後は台湾出兵(1874年)と西南戦争(1877年)において独占的に御用運輸業を務めて発展するなど、維新政府官僚ととくに深い関係であったこともよく知られています。

 これら2大財閥は、近代資本主義経済社会を育てることによってではなく、国家社会主義体制の推進実行部隊として活躍し、成長しました。実際、太平洋戦争開戦後の総力戦体制の下、新興財閥が脱落していく中で、巨大財閥だけは、政府指示に従ってより小規模の銀行を吸収し(グラフはここ)、或いは鉱山業・貿易業中心であった三井も、或いは金融業中心であった安田までも、軍需産業へ業務を拡大していきました。

 官業を重視して、軍需産業中心に育て、或いはまたそのために、国民への所得配分率を次第に低下した結果、近代的民生品の需要の高まりが遅れ、民生品製造産業はなかなか育ちませんでした。例えば、民生品工業技術の産物の代表である時計の国産化は随分と遅れ、さらに真っ先にそれに取り組んだ名古屋の柱時計業界は、民需消費財の供給メーカー群として発展することはなく、途中で時計生産を諦め軍需品製造業に転じています(尾高煌之助著『産業の担い手』〈岩波書店『日本経済史4 − 産業化の時代』《1990年》蔵〉より)。官業を優先した経済政策では、他の先進国のようなバランスのとれた総合的近代産業を育成することはできなかったのです。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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