小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

14. 日本の第2の大経済破綻


〔3〕日本第2の経済大破綻への道

(3) 革新官僚と経済学者が協働した

 真珠湾攻撃に1年先立つ1940年12月7日に、近衛文麿〈ふみまろ〉内閣は、「経済新体制確立要綱」を決定しました。いわゆる革新官僚と呼ばれる人たち(その説明はここ)が、原案では、「企業を利潤追求を第一義とする資本の支配より離脱せしめ」とあった表現を経済界などの強い反対を受けて「公益優先、職分奉公の趣旨に沿って、(中略)国民経済をして有機的一体として国家総力を発揮し」と修正して、その表現を改めたものの、企業の所有と経営を分離させて、国家目的に企業活動を従わせるという方向に向かった国家体制を明言したのです。

 そして、この場合の経営の所有者からの自由というのは、経済学者が説明するような、近代的資本主義経済体制における所有と経営の分離ということではなく、経営権を所有者から切り離して政府官僚の監督権が強く及ぶ企業官僚の下に置くということでしかありません(詳しい説明はここ)。企業官僚とは、若い皆さんには耳新しいかもしれませんが、企業を組織的に管理する者を、経営学では一般的に官僚と呼んでいます。いわば、最も反近代資本主義の姿勢を政府がとることが宣言されたのです。

 このような動きを以て、多くの経済学者は、1940年を前後して革新官僚の主導によって国の経済体制が大きく変更されたと主張しています。それらを代表する経済学者の野口悠紀雄は、日本の戦後体制の基盤となる「1940年体制」が築かれたと主張しています(野口悠紀雄著『1940年体制』〈1995年〉)。しかし、明治維新以降、政府官僚は軍官僚を中心として、経済官僚も同様に、国の計画経済体制からさらには国家統制を第一義とする国家社会主義体制を志向して、期を見て事ある毎に法制度を整えてきたのであって、1940年頃に新しい種類の官僚群によって、政府官僚の動向が急に変わったわけではない、と小塩丙九郎は考えています。そしてそう考えた方が歴史に現れた現実をよりよく説明できるということを、今まで多くの実例を出して説明してきたつもりです。

 政府官僚の派閥争いの結果、革新官僚という一派が権力を得たのではなく、それまでの官僚の思考と行動を、時代環境を活かして自らを最もうまく演出したからこそ、革新官僚は、その他の政府官僚から大きな反発を招くことなく活動できた、と考えるべきです。革新官僚は突出してはいましたが、その根っこは、その他多くの官僚の基にあります

 この時期に主張を変えた人がいるというのであれば、それは、東京帝国大学経済学部内にいて、戦争の行方の傍観者としてではなく、積極的に国策に関わろうと決議した多数の教授たち(1938年、「戦時経済研究会」)でしょう(立花隆著『天皇と東大(下)』〈2005年〉より)。この革新派の教授の中には、従来の国権主義者たち(土方成美〈ひじかたせいび〉グループ)の他に、それまで自由主義を標榜していた河合栄治郎グループの学者が4人(河合本人は参加していない)も含まれていたことは、注目に値します。「もともとは反マルクス主義者の集まりではあっても、リベラルな理想主義者の集まりでもあったはずの河合派があっという間に空中分解して(河合を残して。河合はその後経済学部長を辞任する;小塩丙九郎註)、戦争体制支援者の集まりになってしまったのである」(立花著前掲書)のです。

 官僚は首尾一貫していたのですが、東京帝国大学経済学部教授たちの多くは変節したのです。この後、経済学部はますます混迷の度を深め、やがて学部の存続を揺るがす喧嘩両成敗風の大粛清事件に発展します。そして後に、敗戦直後の日本の経済復興策について政府の官僚や首相に助言を与えるのは、東京帝国大学のマルクス経済学者たち(大内兵衛〈おおうちひょうえ〉や有沢広巳〈ありさわひろみ〉が代表格)ということになります。

 しかし、今の経済学者たちは、そのようには理解していません。中村隆英は、次のように説明しています。「近衛文麿が1945年2月の有名な上奏文のなかで、『軍部内一味革新運動』が、戦争によって『国内革新』を企図し、『これを取巻く一部官僚及び民間有志』が『意識的に共産革命にまで引きずらん』としたのだと述べているのは、事実ではないにしても、後からふりかえってみた場合、そのような解釈が成立しうることを示すものであった」(中村隆英著『概説』〈岩波書店『日本経済史7 「計画化」と「民主化」』《1989年》蔵より〉)と言うのです。

 このように、日中事変から太平洋戦争に至るまでの日本の社会の動きを、軍官僚と革新官僚と呼ばれる人の責任として、その他は良心的であったが、それらに力ずくに屈服させられたのだ、と言いたいのでしょう。そうして、軍官僚と革新官僚のみを戦争責任者として、その他は無罪放免というわけです。無罪人の中には、勿論経済学者も含まれます。

 しかし、ヒットラーほどのカリスマ指導者がいない日本で、あれだけたいそうなことを実現したのが、一部官僚のみの成し遂げた仕業であったというのは、誠に不自然です。軍官僚や革新官僚たちは、社会の大きな動きを反映していたのであり、マスコミや大衆の支持を受けていたのです。そして、そのようなマスコミや大衆の動きを誘導した責任者の中には、帝国大学の経済学者や法学者も含まれています。そのようにして、明治維新以降の社会の変化の動きと、それをもたらした基本的な社会構造を正しく理解しないと、今の日本の停滞状態の根本原因を探ることはできない、というのが小塩丙九郎の考えであり、若い皆さんに主張したいところです。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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