小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

13. 近代資本主義から遠ざかった明治・昭和


〔2〕小資本も巨大資本も自由ではなかった

(5) 情報を開示しない財閥の所有と経営の分離

 それでは、財閥とは一体どのようなものであるのしょうか? そのことについて、少しだけさらに分け入ってみたいと思います。

 財閥を定義すれば、同族の資本を主として、複数の大企業をその下に一体的に経営している企業集団ということになるでしょう。三菱、三井、住友を3大財閥といい、それに安田を加えて4大財閥と一般に呼ばれています。その他に主なものを挙げれば、鴻池〈こうのいけ〉、古河〈ふるかわ〉、川崎、浅野などがあります(渋沢が財閥かどうかについては、意見が分かれています)。そして太平洋戦争敗戦まで、持ちこたえた財閥は全部で14あるとされています。

 それらの経済界全体の中での重みはというと、支那事変→日中戦争→太平洋戦争という一連の戦争が激しくなる以前の1934年にあって、財閥企業の総払込資本の全企業払込資本額に対する割合は、2割を超えており(22.6パーセント)、3大財閥だけで全企業の1割を超えていた(12.1パーセント)のですが、戦時期にさらに財閥への集約化が進み、敗戦後の1947年に特殊会社として指定された時には、財閥企業と3大財閥企業のシェアは、それぞれおよそ4割(43.0パーセント)と4分の1(25.6パーセント)という著しく高い値になっていました(下のグラフを参照ください)。

財閥のシェア
出典: 宮崎正康・伊藤修共著『戦時・戦後の産業と企業』(岩波書店『日本経済史7−「計画化」と「民主化」』〈1989年蔵〉)掲載データを素に作成。

 財閥でなければ企業でないと言っても言い過ぎでないような恐るべき占有率を達成していたことになります。なお、1929年には、三大財閥系銀行の預金量シェアは16.3パーセント、8大財閥系銀行の預金量シェアは42.2パーセントと、近代金融についての財閥のシェアも非常に高いものでした。ですから、20世紀半ばまでの日本の産業を語るためには、財閥企業の本質をできる限り正確に掴んでおくことが必要となります。

 財閥企業の一つの特徴は、その企業情報が開示されないという点にあります。そもそも1890年に制定された旧商法は、「三菱を標的として合資会社、三井を標的として合名会社の条文が生まれた」(渋沢栄一談)と言われたものです。経営者が、情報公開をしないですむような制度整備を強く望んだことに、官僚が応えたのです。そして、財閥については、資産やその他経営に関する情報が、数の限られた内々内の者にのみ提供されて、一般にはその内容を知るすべがなくなりました。

 しかし、財閥会社に優越的な立場をもつ政府幹部官僚には、必要に応じて様々な情報が開示されていたはずだと想像するのは自然なことでしょう。つまり、財閥企業が国家運営や国家の経済状態に対する極めて重要な情報を有しているのにかかわらず、政府幹部官僚以外の政治家、或いはマスコミにはその実態がまったく知られることはなく、そしてその結果、国民一般はその時々の経済実態をつかみようがないということとなります。

 財閥の全貌を掴むために、1930年代以降の政府と財閥との関係を少し追ってみたいとおもいます。既に述べたように、支那事変以降、戦争状態が深まる中で、企業は財閥に急速に集約されていきました。そしてその過程で、政府は企業活動を管理・統制する傾向を強め、急激に拡大する軍事産業に必要な資本は、財閥企業を含むいかなる企業にも不足していたので、政府は、国民の零細資本を増税や、半ば強制的な国債購入、或いは郵便貯金預け入れによって集約し、それを国策銀行であるところの日本勧業銀行や日本興業銀行などを通じて、或いは、政府発注の前払い金として、企業に注ぎ込んでいきました。


 この過程で、財閥本店資本の価値は弱まり、企業の所有と経営が次第に分離されていったと多くの経済学者たちは説明しています。そのこと自体は、勿論、誤りではりません。しかし、それだけの説明では不十分で、財閥企業の所有と経営は、江戸時代半ばより既に分離されていたということを指摘しないわけにはいきません(その詳しい説明はここ)。

 そうした所有と経営の分離体制を明治維新以降も引き継ぎながら、例えば三井の場合、明治に入ってすぐの1874年の三井銀行創設に当たり、200万円の資本金のうち大元方〈おおもとかた〉の出資金100万円、三井家の出資金50万円、使用人の出資金50万円とすることを決定しました。大元方の資本自身が三井家と使用人の「主従持合の身代」でしたから、「純然たる三井同苗〈どうびょう:一族の意〉の出資比率は25%になってしまうことを意味していた」(宮本又郎著『企業経営史研究―人と制度と戦略と』(2010年)より)のです。つまり、明治初期には、三井家の出資割合を下げ、使用人の多額の出資を認めるという大改革が行われるのであり、三井の所有と経営の分離は、さらに一段と進むことになりました。

 そこで、1930年代半ば以降の財閥の所有と経営の分離とは、三井傘下企業の資本の所有者と経営者を分離するということではなく、既に企業組織内では所有者から分離されていた経営者を、発注と融資を通じ、さらには様々な新たに設けられた法律(石油事業法〈1934年〉、輸入為替管理令〈1937年〉、製鉄事業法等各事業法〈1937年〉、軍需工業動員法と工場事業場管理令〈1937年〉、輸出入品等臨時措置法〈1937年〉、国家総動員法〈1938年〉、価格統制令〈1939年〉、四半期別の貸出残高報告制〈1940年〉、国家総動員法改正強化〈1941年〉、全国金融統制令〈1942年〉、工場就業時間制限令廃止〈1943年〉、軍管理による航空工業会設立(1943年)、軍需会社指定金融機関制度創設〈1944年〉など)に定められた雇用や経営に関する直接の指揮権を活用して、政府の圧倒的な管理下に置くことにより、企業経営権を実質的に企業人から政府官僚の手に移すということを意味するのです。

 多くの経済学者は、1930戦時期の政府による財閥の企業支配を梃子〈てこ〉に、企業の所有と経営の分離が進み、それが戦後の日本企業近代化の礎となったと評価するのですが、それは、一つには歴史の認識として正しくはないという点、そしてもう一つには大企業が官僚支配を強く受けているということをはっきりと認めていないという点、において著しく不適当であると言わざるをえません。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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