小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

13. 近代資本主義から遠ざかった明治・昭和


〔2〕小資本も巨大資本も自由ではなかった

(6) 明治政府の建てた経済体制とは?(前編)

 ここでは、明治政府の建てた経済体制とは一体何であったのか、特に近代資本主義体制とはどう違ったのか、ということについて、経済学の観点から迫ってみます。議論が相当堅苦しくなってしまったことについては許して下さい。残念ながら、ここでの議論をこれ以上噛み砕いて平易な表現にはできません。

 徳川幕府の官僚たちは、天保の改革を行う中で、五畿内、中国、西国、四国筋の諸藩に専売事業の禁止を命じています(1842年)。しかし、その一方で、自らは僅かとは言え専売制を拡大し、一方廃止された専売制は一件もりません(このグラフを参照ください)。しかし西南日本雄藩は、幕府の専売制禁止命令に服するどころか、却って専売制を拡大、強化していました。このことは、この時期の幕府の諸藩に対する統治能力の衰えを証明する一つの事例です。

 この頃より、西南雄藩は専売時事業の強化による国力の増強を図っているのです、それは、既存の藩内生産者の所得の多くを奪い取ることになるので、藩内で激しい一揆を引き起こしています。しかしその戦いに勝利する過程で、却って西南日本雄藩の権力を強めることになったというのが、歴史学者吉永昭の理解するところです(吉永昭著『近世の専売制度』〈1973年〉による)。

 専売制度の拡充、強化により藩勢を強めて倒幕に成功したと信じる明治新政府官僚たちは、新政府樹立とともに、通商・為替会社による流通統制の再編、強化を行っています。また、専売事業を実施し、或いは藩営事業を直接行った長州(撫育局による)、薩摩(集成館による)(以上についての詳しい説明はここ)、土佐藩(開成館による)、或いは佐賀藩(代品方による)(以上についての詳しい説明はここ)は、統制経済に向かいます。「この方向は明治新政府による通商・為替会社方式の否定、それにかわる官営エ場の創設の路線に継承されていくのである」と言って、吉永は、前出の著作の「むすび」を締めくくっています。

 吉永の言う「通商・為替会社方式の否定」とは、次のようなことです。大隈重信会計官御用掛が主導する政府は、1869年に外国貿易事務を管理させるため開港場に通商司を置きました。通商司は、物価の安定を図り、貨幣流通通商貿易を管理し、両替商・商社の設立、及び海運業・保険業の創設を進めるという商品流通機構の組織化と金融機関の設立を目的としていました。

 通商司は、その前年に廃止された由利公正(ゆりきみまさ;大隈の前任。元福井藩士)が設立した商法司が幕府期の経済秩序を代表する前期的商業資本(三井、小野、島田などの京の豪商)を中心として流通機構を統制する体制を否定し、より民間の自主的参加を促すという振れ込みのものであったのですが、しかし結局は、それを実行する機関とした通商・為替会社を設立するのに伝統的豪商資本に多額の出資を仰いだのです(三井:22万両、小野20万両、島田:12万両。3組合計で全出資額の4割)。しかもそのうえで、管理経営権を官僚が手放さないという、かつての諸藩が行った専売事業体制を彷彿とさせる運営を行ったため、民間企業者は誰も自発的に働かず、赤字は所詮政府が負担するのだからと日和ったため、当然のようにして多額の欠損を出して、日ならずして破綻しています(中村尚美著『大隈財政の研究』〈1978年〉より)。

 言いかえれば、豪商資本には、それぐらいの金は捨ててもやっていけるだけの体力があったということでしょう。とても、維新の政府施策によって彼等は破綻に瀕していたという多くの経済学者の主張する様であったとは思えません。そして、結局は、新産業振興に当たって官営事業を中心とするという産業政策と、日本銀行を中心とするという金融政策に移行していきます。元藩士の経済担当官僚同士の間の意見の相違は、世界的視点で見ると、精々権力争いのための言葉遊びでしかないということです。

 多くの経済学者たちは、しかし、大隈と由利の意見の違いは重大だと言い、由利の旧い概念を打ち破った大隈重信の財政・金融政策は、欧米列強に倣った日本の資本主義社会体制の基礎となるものだと高く評価するのですが、一体、日本の経済学者たちは、「資本主義」というものをどのようなものと観念しているのでしょうか? 

 日本の経済学者にとっての資本主義の概念は人によってまことに多彩です。また、戦前期にあって、時代の主流をなしたマルクス経済学者たちは、当時の日本が資本主義体制にあるのかないのかということについて激しい議論を展開しました。一方の派(構造派)は、明治維新は王政復古であり、封建制は未だ打ち敗れられてはいないと主張し、もう一方の派(労農派)は、明治維新は不完全な形でではあるがブルジョア革命であり大資本が市場を独占する資本主義社会が現出したと議論しました。

 しかしその何れも、現場を見ない机上の空論だ、と小塩丙九郎は思います。なぜなら、当時の天皇は象徴としての機能しか持たず、実質は軍官僚の専横によっているし、幕末の豪商は西南日本雄藩という勝ち馬に乗っただけで、自ら社会構造改革を指揮したわけではないからです。

 ただ、注目すべきは、この何れもが、日本の明治維新後の経済構造が英米型の近代資本主義ではないと暗黙のうちに認めている点です。つまり、この時期にあって、日本が資本主義社会に移行したと認めた経済学者も、自由市場が現出したとは認めてはいません。そしてマルクス経済学者でない者による見るべき議論はされていません。

 この時期、日本の経済学の発達は遅れていました。例えば、東京帝国大学の法科大学から経済学部が独立するのは、帝国大学(東京帝国大学の創設時の名称)の創設から41年も遅れた1918年になってからのことですし、その当時も経済実学を中心とした「東京高商(東京高等商業学校;一橋大学の前身)との力の差は圧倒的だった」(脇村義太郎東京大学名誉教授の証言〈立花隆著『天皇と東大 上巻』〔2005年〕による〉)のです。またその後、東京帝国大学法学部は熾烈な権力闘争に明け暮れ、学部崩壊の危機を迎えるまでに至り、学問の発達はさらに阻害されました。

 この日本資本主義論争は、太平洋戦争が終わってもなお引き継がれています。つまり、日本の経済体制がどうであったのかという議論は専らマルクス経済学という土俵の中で、共産主義に傾倒するものと社会主義を奉ずるものと間の議論であったのであり、戦後もその枠から外に出た議論はなされていないということです。つまり、日本の経済構造が、英米型の近代資本主義ではないということについて、日本の経済学者は、それを明確に否定する議論を展開したことはありません。ときおり、日本の経済構造は社会主義体制であると論ずる者が出ますが、一般にその論は反民主的政治観念を持った者の行う幼稚な論として科学的にその是非を論ずる以前に排除されますし、外国人がそのような発言を行った場合には、生理的嫌悪感が表されます。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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