小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

12. 日本初の大経済破綻


〔2〕幕府を倒した西南日本雄藩の経済体制

(3) 土肥の専売事業

 薩長2藩に対して、近代産業技術を導入することによって、藩経済を振興しようとしたのが佐賀鍋島藩でした。ペリー来航に20年も先立つ1832年の早き折りから、佐賀藩は長崎の高島秋帆の下で藩士を学ばせて、青銅砲をつくったり、1844年にはオランダより鉄製大砲を入手し、それを基礎に鉄製大砲を配備し、1853年のロシア艦隊の長崎来訪に備えています。そしてこの大砲技術は、薩摩藩に伝えられ、倒幕活動にも役立っています。


鍋島藩の反射炉と大
〔画像出典:Wikipedia File:Tsuiji Reverberatory furnace Saga.JPG 著作権者 Pekachu 〕

 1854年には、代品方〈かわりしなかた〉を設置して、陶器(有田焼や伊万里焼など)、石炭、櫨〈はぜ〉、ろうなどを統制し、物産を大坂で販売して軍艦の購入を企てていますが、その目的のーつは、「之によって中原に向かって運動するの計を立てんとの企画を為したりき」と大隈重信は『大隈伯昔日諏』に書き遺しています。

 佐賀藩は、1855 年には蒸気機関車の模型の走行に成功し、或いは 1865 年には、薩摩藩に10年遅れてはいますが、蒸気船を完成させています。このような進取の雰囲気の中から、明治新政府で活躍する江藤新平、副島種臣〈そえじまたねおみ〉、大隈重信と言った革新的な人材を輩出しています。しかし、産業振興に必ずしも成功していなかった佐賀藩は、これらの産業を発展させる財政資源に事欠き、維新活動に当たって薩長 2藩の後塵を拝することとなります。


蒸気機関車の模型
田中久重が作った蒸気機関車の模型
〔画像出典:Wikipedia File:Tsuiji Reverberatory furnace Saga.JPG 著作権者 Pekachu 〕

 本論から少し外れますが、重要なことなので、蒸気船をつくる過程で、機械についての関心が尋常でないほど強かった佐賀藩主鍋島閑叟はや藩士たちの心に芽生えた一つの意識のことについて、一言触れておきたいと思います。蒸気船のボイラーや蒸気機関を造る過程で、正確な寸法の機械を造るためにオランダから輸入した旋盤などを使っていたのですが、それでも結局は圧延用ローラーその他を備えた本格的な造船工場を建設する必要があることに気付きました。それらがなくても一応のものはできるのですが、精度が足りないと設計馬力の5分の1ほどの推進力しか出せないことが分かったからです。


日本初の実用蒸気船
鍋島藩がつくった日本初の実用蒸気船“凌風丸”
〔画像出典:Wikipedia File:Tsuiji Reverberatory furnace Saga.JPG 著作権者 Pekachu 〕

 しかし、当時の藩単位の財政規模では、洋式軍事工業技術のすべてを導入することは困難であり、国家規模でしかこれは成し遂げられないとの思いを強く持ちました(鈴木淳著『機械技術』〈2001年、山川出版社『新体系日本史11 産業技術史』蔵〉より)。これは、佐賀藩同様、蒸気船を造ったことのある薩摩藩士たちも同様であったでしょう。

  • 幕末の日本がつくった蒸気船は、見ばは立派でも、馬力は西洋のものにはるかに劣っていた。

  • 日本統一がなければ近代産業技術開発ができなかった! そういう産業史観をもつことが大切です。

 日本を統一国家としてし直さなければならないという思いを育てた要素の一つに、この西南日本雄藩の若い藩士たちが持った、産業技術開発を行える国家組織の整備が急務という意識があったことは重要です。日本国家統一の必要性は、内乱を起こすと欧米列強の介入を招くおそれがあるといった、政治的な動機のみにより理解されたわけではないということです。しかし、歴史学者たちの手にかかると、こういった産業技術開発ということについての視点が、一切脱落してしまうのです。それでは、歴史を片面から見たことにしかなりません。

 土佐藩も、他の西南日本雄藩と同様に、各種有力商品についての専売制を実施しています。紙、茶、漆、材木などについてです。1866年に、開成館を設置し、軍艦局・貨殖局・捕鯨局・勧業局・税課局・鉱山局・火薬局・鋳銭局・医局・訳局などを置き、藩を挙げての殖産興業体制を整えています。そして、この貨殖局の商務実施組織として土佐商会がつくられ、長崎での物産の販売や武器の買い付けを行いました。そしてその主任の役を後藤象二郎から言いつかったのが後に三菱財閥の総帥となる岩崎弥太郎です。土佐藩もまた薩摩藩同様に、二分金の偽造を行っています。

 最後に、幕府自身は専売事業にどのように関わったのかということについて触れておきたいと思います。幕府開闢〈かいびゃく〉直後の1604年に、糸割符〈いとわっぷ〉制度の実施が定められており、白糸(高級生糸)は京都、堺、長崎の糸座に属する商人のみが扱える専売商品とされたのですが、このとき同時に朱(顔料や薬品の材料)を専売制にした他は、17世紀中は後半に至るまで全く制度を加え、或いは変更していません。それが、17世紀末の元禄期に入ると突然専売制を盛んに実施するようになります。そして、享保の改革において、専売制は拡大強化されました。

 17世紀中に行われていた新田の大開発が終わり、年貢収入が増えなくなり、幕府の財政が困難になってきたため、専売制を実施することにより、米年貢以外の収入の拡大を計画したものと考えられます。以降、間断なく専売制制度は強化されていくのですが、田沼意次の時代に入って、専売制に関する施策件数が急増します。田沼は、この時期、株仲間組織の拡大を急いでいたことから、株仲間組織が専売制に結び付けられて構築されたことがこのことからわかります。そして、田沼の失脚後は、専売制の廃止が相次ぎました(下のグラフを参照ください)。


幕府の専売事業
出典: 吉永昭著『近世の専売制度』(1973年)掲載年表データを素に作成。

 天保の改革では、株仲間の解散を言い(1841年)、その翌年には五畿内、中国、西国、四国筋の諸藩に専売の禁止を命じています。しかし、その一方で、自らは僅かとは言え専売制を拡大し、一方廃止された専売制は一件もありません。天保の改革の理念が不明瞭であり、従ってその実行もおおいに疑われるところです。そして、西南日本雄藩は、幕府の専売制禁止命令に服するどころか、却って専売制を拡大、強化していました。このことは、この時期の幕府の諸藩に対する統治能力の衰えを証明するもう1つの事例です。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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