小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

12. 日本初の大経済破綻


〔2〕幕府を倒した西南日本雄藩の経済体制

(2) 薩長の専売事業

 長州藩は新田開発や塩田開発、或いは諸商品の専売事業を行う撫育局〈ぶいくきょく〉という組織をこしらえて、その会計は、藩の一般会計からは切り離した独立したものとしています。撫育局を今の時代に当てはまれば、都道府県の企業局のようなものでしょうか? ただ今の企業局と違うのは、事業補助金を一般会計から受け容れるのではなくて、一般会計の赤字を政府に見せつけておいて、陰でこっそりと気ままに使える資金を蓄え、或いは支出することが目的でした。

 撫育局は、京や大坂の特定の株仲間の一員である豪商を特定して、それに商品の独占販売権を与え、その売上金によって多いなる所得を得ました。この仕組みを機能させるために、長州藩は19世紀初頭に、藩内の諸商品を一括して買い上げる産物会所を藩内各地につくっています。つまり、藩の専売制度と幕府の株仲間制度を連結させて、藩と豪商による巨額の利益の独占を行ったのです。このため、地元の有力商業者を専売事業から排除しなければなりませんでしたが、その難点を押してもこの取引は強行されました。それらの専売事業の対象となったのは、例えば、藍〈あい〉、櫨蝋〈はぜろう〉、綿織物などがあります。

 専売事業が余りに生産者にとって苛酷であったので、1830年代に一揆が多発し、このため藩は専売制を廃止していますが、しかしその代わりに高税をかけるとともに、藩外への販売を藩が独占するという仕組みは守ったので、特産物の全国市場での販売利益の大半を藩が独占するという体制は大きくは変わりませんでした。そして割を食ったのは、地元の百姓を含む生産業者と高額の商品を押し付けられた消費者です。つまり、藩が諸産業を徹底して管理し、そこから生まれる収益の大半を藩のものとしたのです。そしてこうして得られた自由な財源の多くが、その後の倒幕活動費用に割かれることになります。

 維新活動の有力な主導者である高杉晋作と木戸孝允〈きどたかよし〉は、撫育局にある金融・倉庫業を行う部署である越荷方頭取に任命され、活躍しています。維新の志士たちは、単に武闘派であったわけではなく、財政家でありビジネスマンでもあったということです。明治維新を薩長土肥が成功させた真の力は、それらの藩の持っていた幕府を凌ぐ強力な経済力であったことが、このことは示しています。


参勤交代
上杉晋作(左)と木戸孝允(右)
〔画像出典:Wikipedia File:Shinsaku Takasugi.jpg (高杉晋作)、 File:木戸孝允・伊藤博文.jpg 著作権者 国立民俗博物館 (木戸孝允)〕

  • 倒幕・維新は、旧型経済体制と新型産業振興体制との争いの過程です。

  • 歴史をヒーロー物語りに仕立て上げるのは、日本の歴史学者の悪弊です。

 薩摩藩は長州藩と同様の経済政策をとっていますが、薩摩藩にはその上に琉球という植民地がありました。そしてさらに、琉球を通じた中国との貿易があり、これらは薩摩藩に対して多額の収益をもたらしました。琉球には、南国の気候を活かした黒糖(サトウキビの栽培による)や、緞子〈どんす〉・羅紗〈らしゃ〉・唐紙、或いは臙脂〈えんじ〉や花紺青〈はなこんじょう〉と言った染料などがあります。そして、琉球国民には、一切の利益の配分は行っていません。また、薩摩は、一分金や二分銀などの貨幣の偽造まで手掛けています。

 薩摩は、北は函館から南は熊本まで、全国各地の藩との間の藩際交易に熱心で、米、砂糖、干鰯、油、生蝋、薬種、染料銅、鉄、艦船、武器など多彩な商品を交易していますが、その多くは専売品でした。そのほか、琉球を介した密貿易にも熱心でした(吉永昭著『近世の専売制度』〈1973年〉より)。当時の薩摩は、言わば、活発で勝手気ままなプチ帝国主義国家であったと言ってもいいと思います。しかし、それでもなお、幕府から与えられた参勤交代やお手伝い普請による財政疲弊策の影響があり、財政は、長州藩同様に厳しい状態にありました。


参勤交代
薩摩藩の洋式工場開発のための集成館事業関連施設群(右)
〔画像出典:Wikipedia File:Shuseikan.JPG 〕

 そしてその理由の一端は、他藩に比べて異常と言っていいほど高い武士人口比率にもありました。武士とその家族の総人口に占める比率の全国平均が6パーセントほどであるのに対して、薩摩藩でのその値はおよそ26パーセントにも上っています。ただ、薩摩藩の武士の多くは、城下にではなく、藩内各地に広がっており、半農的な生活をしていました。こうして薩摩藩は、関ヶ原の戦い(1600年)に敗れて以来、臥薪嘗胆〈がしんしょうたん〉、準戦時体制を2世紀半にわたって維持してきたということです。そしてそのような状態を維持できるように、薩摩は懸命な経済開発をし続けていたということを知る必要があります。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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