小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

12. 日本初の大経済破綻


〔2〕幕府を倒した西南日本雄藩の経済体制

(1) 専売事業を始めた東北諸藩

 19世紀に入る頃にはますます混迷を深めていた幕府に対して、薩長土肥といった西南日本雄藩は経済成長を続けていました。そしてそれらの力の大きな源泉の最大のものは、専売事業の経営から得られる巨額の利益でした。

 ここではまず、江戸時代の専売事業とは一体どのようなものであったのかということを説明したいと思います。

 幕府と同様に、諸藩の財政の歳入の基礎はやはり米年貢でした。そして幕府と同様に、18世紀に入って水田開発が進まなくなると財政は次第に困窮し始めました。そこで幕府は、貨幣改鋳を行いその収益金(出目)をとり、或いは商業者から冥加金(株仲間登録税)や運上金(売上税)、つまり今風に言えば法人税、をとって歳入に充てようとしたのですが、諸藩の場合はそうはいきません。通貨発行権をもっているわけでもなければ、京・大坂・江戸3都の様な大商業都市を抱えているわけでもなかったからです。

 その上で、諸藩は様々な巨額の支出を幕府から迫られていました。第1は2年ごとの参勤交代に要する出費であり、第2に幕府から無償で要求されるお手伝い普請でした。その最も有名な例は、1754、5年に薩摩藩が幕府から命じられて行った木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)の治水工事があります。千人近い薩摩藩士が派遣され、砂糖を担保に多額を借金するなどして都合40万両(1両=15万円で現在価値に換算すれば、おおよそ600億円)を投じて工事を進めたのですが、工事中の事故や赤痢の蔓延により合計80名を超える自害者と病死者を出したという壮絶なものです(宝暦治水事件)。


参勤交代
参勤交代行列図
〔画像出典:Wikipedia File:Sankiko03.jpg〕

 幕府はあの手この手を使って諸藩の財政の恒常的赤字化を企み続けていましたから、18世紀以降の諸藩の財政状態は惨めなものでした。そこで、諸藩が編み出したのが専売事業という仕組みでした。藩が特定の商品の生産と販売を一括して管理して、そこから生まれる事業収益を藩が独占して赤字の穴埋めに充てるという企みです。

 そしてこの試みは、地球の小氷期の低温の影響を最も受け、財政の窮乏が日本で一番早く進んだ東北諸藩で18世紀末に始められました。宝暦の飢饉(1753年から1757年)と天明の飢饉(1782年から1787年)を経て、農村が大きく荒廃したために、米作農家の年貢を増やすことなく、別の歳入を懸命に求めた結果辿りついた経済施策が、専売事業の企画・実施であったのです。

 東北諸藩は、藩内に有力な商業者を持ってはいなかったので、京・大坂・江戸3都の有力商業者との連携によってでしか専売事業を実施できず、東北諸藩の専売事業は3都の有力商業者の意向に沿ったものでしか経営できませんでした。その上に、財政赤字を埋めるための借入をこれらの有力商業者から行ったのですから、東北諸藩の経済的独立は誠に危ういものでした。また、特段の特産品をもたない東北諸藩では、専売品といっても生糸、織物などに限られました。それらの専売品は、主に零細な家内工業として行われたので、産業の大きな発展は実現せず、冷害に見舞われ続けたことと相まって、家内工業の実施は東北諸藩の死滅を防いだものの、発展にはつながりませんでした。

 上杉鷹山がたて直した米沢藩以外では人口減少が続き、経済発展力を得ることができなかった東北諸藩は、結局後の維新活動とは無縁となりました。東北諸藩ほどひどい財政状況に追い込まれていなかった西日本の諸藩が専売事業を始めるのは、それから少し後の時代になります。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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