小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

12. 日本初の大経済破綻


〔1〕幕府が招いた大経済破綻

(10) 日本初の大経済破綻が起こった

 アメリカのマシュー・ペリー東インド艦隊司令長官が率いる4隻の軍艦が浦賀沖に現れた(1853年)後の日米両国の交渉の結果、5年後の1858年に日米修好通商条約が結ばれます。そしてその条約に基づき日米間の通商が始まったのですが、大きな問題がありました。当時の日本と世界では、金と銀との交換比率が大きく違ったのです。

 比較的大量の金を産出した日本では、同じ重さの金と銀との大まかな交換比率は伝統的におおよそ1対5でした。ところが当時の世界では、その比率はおおよそ1対15と金の銀に対する価値が圧倒的に大きかったのです。そこで、日本の金・銀貨とアメリカの金・銀貨の交換比率をどうするかで、両国の交渉はおおもめにもめたのです。結果、アメリカの主張が通りました。ところで、当時の世界は金本位制ではなく銀本位制であったので、金貨ではなく銀貨の交換比率を中心に両国の交換比率が議論されたのですが、それはやむを得ないことでした。


日米の銀貨
1分銀(左)と1ドル銀貨(Seated Liberty Coin)
〔画像出典:Wikipedia File:Tenpo-1bugin.jpg 著作権者 As6673(1分銀)、File:1859-O $1.jpg(1ドル銀貨 Seated Liberty Coin)〕

 日本が日本の1分銀1枚とアメリカの銀貨(1ドル硬貨)は同等だから1対1の交換比率にしろと主張したのに対して、アメリカは2つの硬貨の銀の含有量は随分と違うから、その含有量比率に合わせて1ドル銀貨1枚は1分銀貨3枚に交換できるはずだと主張したのです(1分銀の銀含有量は8.55匁、1ドル銀貨の銀含有量は24.057匁)。そしてその限りにおいてアメリカの主張が現実に即したものであったので、アメリカは自分の主張を押し通すことができました。

 問題は、両国で金と銀との交換比率が大きく違うことでした。例えばアメリカの金貨(20ドル硬貨)1枚を20枚のアメリカ銀貨(1ドル硬貨)に交換して、先ずそれを日本の1分銀貨60枚に交換します。そしてそれを日本の金貨12枚と交換します。日本では金貨と銀貨の交換比率は1対5だからです。そうして金貨を自国に持ち帰ってそれを鋳つぶして金を取り出せば、アメリカの金貨1枚を鋳つぶした時に取り出せる金の3倍の金が手に入ることになります。そうして20ドル金貨が60ドルに化けるのです。アメリカ人を初め、当時日本と通商を始めた先進国(イギリス、フランス、ロシア、オランダ)の人々は、競うようにして銀貨を日本に持ち込んで日本の金貨を大量に手に入れました。これが、幕末の大量金流出問題と呼ばれるものです。


日米の銀貨
安政小判(左)と万延小判(中央)と20ドル金貨(Double Eagle)
〔画像出典:Wikipedia File:Koban evolution.jpg 著作権者 As6673(1分銀)No machine-readable author provided. (安政小判と万延小判)、File:NNC-US-1849-G$20-Liberty Head (Twenty D.).jpg (20ドル金貨 )〕

 金貨が大量に流出しただけなら、国内経済は通貨不足でむしろデフレになるはずなのですが、実際にはインフレが進みました。その理由は、こうです。金の大量流出に慌てた幕府は、金貨の銀貨に対する交換比率を世界水準の1対15にすればいいのだと考えて、小判の大きさを一気にそれまでの3分の1にしたのです。そうして発行されたのが、万延小判です(1860年)。

 それまでに流通していた安政小判の重さが2.4匁であったのに対して、万延小判の重さはその2.7分の1の0.88匁に過ぎません。安政小判をすべて万延小判に交換すると、金貨の流通量は一気にそれまでの3倍近くになるはずです。マネタリーベースが急速に拡大すると感じた市場は、一気にハイパーインフレに突入しました。それまで既に、幕末第2段のインフレ状態にあったことは既に説明したとおりですが(詳しい説明はここ)、悪性インフレが進行中の市場にマネタリーベース(流通貨幣総額)を一気に拡大しようとしたのですから、ハイパーインフレになるのは当然です。

 こうして日本は、1960年からハイパーインフレ状態に陥ったのです。そこで日本の歴史学者や経済学者は、ハイパーインフレはアメリカなど先進国から強要された不平等な通商交渉の結果だというのです。しかし、先の項で既に説明したように、日本は既にいつハイパーインフレが始まってもおかしくはない状況に至っていました。万延小判の発行は、ハイパーインフレが起こる直接の引き金にはなりましたが、しかしそのために、幕府の大経済破綻の真の原因が覆い隠されてしまうという結果を招いてしまいました。

  • 幕末の混乱、維新への胎動、これらを引き起こしたのは黒船の来襲だ、とする歴史観は歪んでいます。

  • 「元寇を神風が追い返した!」との史観に通ずるものがあります。

  • 「事件は、国内で起こっている!」

 幕府の財政、そして日本の経済は、万延小判の発行がなくても1960年頃にハイパーインフレに陥る状態にあったということを理解することが重要です。1970年から政権に就いた田沼意次がつくった官僚主導官民癒着の自由のない経済市場は、1818年の文政の改鋳を余儀なくされ、さらにはそのわずか18年後の1937に天保の改鋳に追い込まれるという時期に、既に幕府財政と幕府が主導する京・大坂・江戸の3都を含む畿内以東の経済圏が大破綻することは免れなくなっていた、と理解するべきです。そうして、大飢饉や大災害もないのに、米価が基準値である1石当り銀60匁という水準の倍を上回るほどの高水準にまで達した1850年に幕府財政と東日本経済は大破綻状態に陥っていた(米価推移のグラフはここ)と理解するべきである、というのが小塩丙九郎の考えです。

 幕府の人口調査が1846年を最後にそれ以降なされていないことからわかるように、当時既に幕府官僚が混濁状態に陥っていたことを先に紹介しました(ここを参照ください)。経済と行政は1850年に大破綻していた。そう考えていいと思います。

 つまり、意次の官僚主導官民癒着の管理市場体制が構築されておおよそ4分の3世紀後に、日本経済は史上初の大破綻をしていたわけです。それより現在に近い1860年のハイパーインフレが巻き起こした大砂ぼこりに隠されてしまった江戸時代の真の大経済破綻の姿を見失っていたのでは、江戸時代の経済政策とそれが招いた大経済破綻という歴史の本質を理解することはできません。

 そしてそのことこそが、幕府が西南日本雄藩の攻撃にあって倒された最大の原因だ、というのが小塩丙九郎の考えです。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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