小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

12. 日本初の大経済破綻


〔1〕幕府が招いた大経済破綻

(3) 混濁状態に陥った幕府官僚たち

 田沼時代以降、京・大坂・江戸3都の経済停滞がますます進むことに難渋した幕府官僚たちは、武士の数を減らしたりして無駄な出費を控えるといったようなことによって対応しようとせず、つまり歳出カットは試みず、文政期(1818〜1820年)に通貨を改鋳して、出目(詳しい説明はここ)を得ることによって財政を改善しようとしました。改悪された通貨がますます多く市場に出回ることになり、名目通貨量は激増するのですが、そのことは物価を年平均3パーセントの速さで上昇させました。

 しかし、この上昇率は年平均およそ0.6パーセントという実質経済成長率を大幅に上回っていたましたので、消費者の実質購買力は低下し、それは商工業者の投資財源を枯渇させ、その結果緩やかに成長しつつあった経済は、再び停滞しました。この時期、実質GDPが僅かながらに上昇しつつあったのは、3都の経済が停滞する一方で、地方部で経済成長があったためですが、幕府の財政・通貨政策は、その勢いすらなくしたしまったというわけです。

 そして、このようなインフレで停滞した経済、つまり今でいうスタグフレーションの状況にあった社会を天保の大飢饉が襲いました。幕府は高騰する米価を抑えようとするのですが、それまで地方資本に攻撃されつつあった大坂や江戸の株仲間は、これを業績復活の機会と捉え、幕府に協力して米価統制を下げようとはせず、むしろ高騰する米価を種に利益を拡大しようとしました。意次の時代に起こった天明の飢饉に際しては、同じ行動をとった株仲間に対して意次たち幕府官僚はまったくその態度を責めることはありませんでした。いわば、幕府公認の正当な商業行為だ、と商業者たちは考えていたに違いありません。当然、米価は天井知らずに高騰しました(下のグラフを参照ください。なお幕末のインフレについては、別のところ〈ここ〉でさらに詳しく説明します)。


幕末までの米価
出典:岩崎勝著『近世日本物価史の研究』(1981年)掲載の大坂の米価データを素に作成。

 そのような株仲間の行動を見た老中水野忠邦らの幕府官僚は、株仲間の管理を強化して米価統制することを諦め、株仲間の解散を命じ、米価を管理することによってではなく、株仲間の高い値での価格管理体制を破壊することによって、自由競争状態を市場に起こして米価を鎮静させる策を採りました。この経済管理体制緩和策が採られたことによって、地方から江戸市場への商品流入量は増えたのですが、飢饉による米の不足量があまりにも大きかったので、結局米の生産量が回復するまで米価が元に戻ることはありませんでした。商品の量が絶対的に足りない以上、市場を自由にしても価格が大きく下がることはないということです。

 幕府が行った株仲間を解散させる政策がその後も維持されれば、京・大坂・江戸の3都を中心にした全国規模での自由競争市場が構築され、新たな経済成長の機会が得られたのかもしれないのですが、幕府官僚たちはここで迷走を始めます。

 忠邦は、夷敵から湾に面した大坂と江戸の防備力を増強するため、両都近辺の所領を幕府直轄にして整理するという上知令を出したのですが、自分たちの所領の所有・管轄権に手を出されたことに激しく反駁した譜代大名や有力旗本といった幕府の高禄官僚によって忠邦は失脚に追い込まれます。その直後に、高禄官僚たち同様に既得権勢力である株仲間の復活が認められました。おまけに、多くの百姓を農村に帰して検地を強化して年貢米を増量することによって歳入を拡大した幕府は、株仲間が冥加金を負担する義務までなくしてしまいました。石高制と株仲間制という古い既得権者の天下が復活したのです。ただ吉宗の頃と違っていたのは、株仲間がカルテル組織として機能していいとした意次の残した仕組みはそのままとされたことです。

 これで、全国規模での自由市場体制構築の勢いは忽〈たちま〉ちのうちに頓挫してしまいました。享保の改革で実現した物価統制を目的とした株仲間制度でもなく、意次が実現した商業者から税をとるという体制でもなく、ひたすら米年貢と出目(でめ;貨幣の品位を下げるときに生ずる差益)に頼るという時代錯誤でもある常軌を逸した財政・金融政策を幕府は採るに至ったのです。この頃の幕府財政の歳入の5割を大きく超える部分は、出目に頼る状態になっていました。そうした何とも荒っぽい政策を行う中で、株仲間からちまちまと税を集める手間は面倒になっていたのでしょう。この頃の幕政には、ひとかけらの科学性も合理性もみられません。幕府官僚たちは、政権末期の混濁状態にあったのだ、と理解していいと思います。

  • 人口調査は国家運営の基本中の基本!

  • この頃の幕府官僚は、何を頼りに国の実態をとらえていたのだろうか?

 1786年以来、6年ごとに確実に行われてきた全国人口調査も、1846年を最後になされなくなりました。国家統治の最も基本となる人口調査すら行えないというほどの混乱状態に幕府は陥っていたということです。これはアメリカのマシュー・ペリー東インド艦隊司令長官が率いる4隻の軍艦が浦賀沖に現れるとき(1853年)よりさらに前の頃の話です。徳川幕府は、アメリカの開国要求によって政権が揺らぎ始めたのではなく、それ以前より自ら瓦解状態に入っていた、というのが小塩丙九郎の見方です。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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