小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

12. 日本初の大経済破綻


〔1〕幕府が招いた大経済破綻

(2) 大都市経済の衰退

 農業の発展の遅れは、先ず東北地方を中心とした地域に飢饉を産みました。しかし、飢饉になると冷害の発生する東北地方や北関東地方のみならず、都市住民も同様の被害を被っていました。元々衛生状態が悪くて出生率が低かった上に、米価の高騰により農村以上に米を手に入れることが困難であったために栄養不足により「江戸煩い〈わずらい〉」とか「大坂腫れ〈ばれ〉」と呼ばれた脚気などの疾病が蔓延し、或いは乳児死亡率が上昇して、18世紀の都市部の人口は、むしろ減りました(下のグラフを参照ください)。


都市人口
出典:鬼頭宏著 『人口で見る日本史』(2007年)掲載データを素に作成。

 日本の都市人口の全人口に占める割合は、17世紀半ばに17.0パーセントでしたが、18世紀半ばには13.6パーセントにまで低下し、それ以降も緩やかにではありますが、低下し続けています。これは、都市部で幕府や藩政府と株仲間が共同して自由な商工業活動を認めなかったために、都市の産業が発展せず、その規制が比較的緩やかであった農村部の在郷町が経済成長を産む場所となったためと理解されます。日本で最大の3都市である京、大坂、江戸はすべて幕府の領土内にあり、そこでは吉宗、さらに意次によってその基礎がつくられた官僚が厳重に管理する不自由な市場の下にあったからです。しかし、国の経済中心地の停滞は、当然のこととして全国にも深刻な影響を及ぼし始めていました。

 この頃の地方都市ではどうであったかというと、例えば城下町である岡山の港に入る船の数は、1789年には1736年から1750年の水準の3分の1にまで落ち込んでいるとの記録が残されています。「近年、城下町の人々は在方(周辺の村落)に人を遣わして買い物することが多いし、町の商人が在方の商人から商品を仕入れているあり様である」と報告されています。そして同じ岡山で商う醸造業者の1802年の数は、それより30年前からの間に67から44に減ったのですが、その理由は「在方(周辺村落)の競争相手はより低い生産費、及び株仲間や都市の統制からの自由を享受し、従って『全く望む通りに』造り売ることができる」ことであるとの訴えがあったと記録されています(以上、トマス・スミス著『前近代の経済成長―日本と西洋―』〈1977年;社会経済史学会編『新しい江戸時代史像を求めて』所蔵〉より)。

 つまり地方にあっても、藩官僚が直接厳しく管理する城下町で経済が滞ったのに対して、十分に監視の目が行き届かない郊外地で、比較的自由な経済活動が行われ、そしてそこで活躍する新興資本が城下町の既存商業者を脅かし始めていたわけです。そして、都市の醸造業者が求めたのは在方と同じような自由を認めろということではなく、在方の同業者を取り締まれということであったというのです。市場が管理されると、それに慣れた商業者はやがて活力をなくす、ということがここでも証明されています。

 このような状況は、岡山に限ったことではなく、全国の大概の城下町で同じようなことが起こっていました。ここに江戸時代の後半期における株仲間の意味が、はっきりと表されています。

  • 市場の自由を奪われた江戸時代の大都市は必ずしも豊かでなく、しかも次第に衰退した

 都市が廃れた一方で、望まれた商品の供給増加は農村部で実現されました。例えば19世紀初頭の大坂在郷の日雇い賃金は京都のそれを50パーセントも上回っていましたが、一部都市と農村の賃金を画一とする政策を採っていた藩以外については、日本全国どこでも同じようでありました。都市住民の生活水準が農村民のそれを上回るのは、明治期の産業革命以降の比較的新しいことです。江戸の繁華な様子を時代劇などで目にすることの多い若い皆さんは、現代日本の実情をも思い浮かべて、都市の方が田舎より栄えているのは当たり前だと思っているかもしれませんが、特に江戸時代の後期にはそうではありませんでした。

 地方で勃興した資本が京・大坂・江戸3都の大問屋に頼らない独自の広域流通網を築き始めた結果、大坂や江戸の株仲間の市場統制力が次第に弱まってきました。米以外の食品や消費財の流通量が増すにつれて米への需要が緩やかに減少し、そのことは米価を年平均マイナス2パーセントの速さで下げました(1790年代以降)。石高制に従い米の年貢に大きく依存していた幕府や特に東日本の諸藩では財政が悪化し始めました。実際、鴻池家を初めとする大商家の大名貸しについて借金の棒引き、利息の削減、踏み倒しが相次ぎ、大名貸業務は危険な状態から破局的な局面に移っていることを歴史経済学者の安岡重明は明らかにしています(宮本又郎『日本企業経営史研究』;原典:安岡重明著『財閥形成史の研究』〈1970年〉より)。

 例えば大名貸しトップの商家であった鴻池の貸金事業の利益率は、17世紀半ばにはおおよそ15パーセントであったものが、18世紀に入って5、6パーセントほどに落ちていましたが、18世紀末に急落し、19世紀に入る頃には物価上昇率を時々下回っていそうな2パーセント強にまで落ちています。この利益の中には、家賃や扶持米を含むので、赤字同様の状況と言えます。実際、鴻池の純資産額は、19世紀に入ってからは、毎年の増加率が1%強と、名目額がほとんど増えていません。物価上昇を考慮に入れれば、実質資産額はむしろ減少していたのです。


鴻池家の利益率口
説明: 5年毎の平均利益率を繋げたグラフ。途切れている所はデータがない期間。
出典: 藤田貞一郎著『商家の意本蓄積』((宮本又郎著『江戸時代の企業者活動』〈1977年〉蔵)掲載データを素に作成。
原典: 安岡重明著『日本資本制の成立過程』


 これは、3都の大商家について同様であり、三井の場合は1770年代に既に資産の名目伸び率が1パーセント台になっており、19世紀に入るとまったく増えていません。意次を評価する学者たちが重商主義者と呼ぶその意次がつくった官僚主導官民癒着の経済体制は、時が過ぎるにつれてどんどんと大都市を疲弊させていったのです。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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