小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

12. 日本初の大経済破綻


〔1〕幕府が招いた大経済破綻

(1-3) 時計技術に見る日本とヨーロッパの違い

 ヨーロッパで最初の機械式時計は、恐らく13世紀末にイタリア人ジョバンニ・ディ・ドンディにより造られ、それは公衆に供されたので、14世紀後半以降にはヨーロッパ各地で数多く公共建物や教会につくられています。しかし一方、11世紀(1090年)の中国(宋)で蘇頌と韓公廉によって世界初と思われる機械時計が作られていますが、暦を表す仕掛けは皇帝の権力を維持するために極秘とされ、宋の滅亡とともに消えてなくなってしまいました。アジアでは、機械を趣味や権力維持の材料として使うことはあっても、それを産業発展の重要な道具としては考えませんでした。しかも、ヨーロッパで時計が多くつくられるようになってから、4世紀も経った後でも。

 ヨーロッパの機械式時計は16世紀に日本に紹介されている。日本人で最初に機械式時計を入手したのは、スペイン人宣教師フランシスコ・ザビエルから「自鳴鐘〈じめいしょう〉」と呼ばれるものを献上された(1551年)大内義隆だと言われています。以降、定時法のヨーロッパ式時計を、不定時法(日の出を明け六つ、日の入りを暮六つとして、日の出から日の入りまでの時間を等分に区切るので、季節により1刻が長縮みする)表示に改善した和時計が考案されるのですが、それは贅を尽くした装飾が施された将軍や大名、或いは豪商の自慢の品となります。今でいえば、宝石をちりばめた一品生産のスイス製高級時計といったところでしょうか。そして、それが庶民用の廉価な普及品として大量生産されることはありませんでした。

 ちなみに、この先端技術を官が独占するという悪弊は、明治期の産業革命期にも受け継がれ、それが日本の近代産業の技術発展を大きく阻害しているのですが、そのことについては別の章(ここ)で詳述します。ちなみに、日本が開国した時に先進国では柱時計、置時計と懐中時計が全盛であり、日本はそれらを輸入する以外になかったのであり、日本人(1892年創立の精工舎など)がまがりなりにも国産時計を造り出せるようになるにはなお40年間ほどの長きを待たねばなりませんでした(尾高煌之助著『産業の担い手』〈岩波書店『産業化の時代』《1990年》蔵〉より)。日本人は、先進国の先端機械技術を、歴史学者や経済学者たちが主張するほど即座にはマスターできてはいません。

 一方イギリスでは、理髪師であったリチャード・アークライトが自ら得た紡績機械の特許を素に、時計職人を雇って機械の組み立てに成功し、さらに動力として水車を使って、世界で初めての大規模な機械紡績を初め、これがイギリスの産業革命の発端の一つになっています(小松芳喬著『英国産業革命史』〈1991年)による〉。アークライトと間の思考・行動様式の余りにも大きな違いには悄然〈しょうぜん〉とするしかありません。

 日本にも伝統的な機械技術はあったのですが、その成果が庶民の前に現れる時は、からくり人形の形をとっていました。機械技術を生産道具を作るためにではなく、機械人形を作る道具にして遊びに使うという伝統は古代ヨーロッパの風習と同様であったのですが、先に示したアークライトの例のごとく、ヨーロッパは中世期以降、様々な機械技術を産業開発に応用していきました。

 一方アジアではどうであったかと言えば、「印刷術、火薬、羅針盤と言った歴史的大発明が、中国自体の歴史的進化において何ら決定的な役割を果たさなかった」(ジャン・ギャンベル著『中世の産業革命』〈1978年坂本賢三日本語訳〉より)のです。しかし、中国から製紙技術を入れたヨーロッパは、その製造工程を直ちに機械化しました(1267年、イタリアのファンブリアーノの製紙用水車)。以降直ぐにヨーロッパ中に広まった、とフランス人歴史学者のギャンペルは誇らしげに語るのです。

 日本で水車を動力とした紡績機械が動くようになるのは、明治に入ってすぐの1872年になってのことです。幕末の動乱の中で、幕府がようやく江戸の商人(鹿島万平)に紡績機械の輸入を認めた(石井寛治著『日本の産業革命』〈1997年〉より)ためなのですが、それが実際に動き出すまで、幕府の命運は持ちませんでした。だから、幕府の下で紡績産業の機械化は行えなかったことになります。日本の近世は、ヨーロッパの中世に後れをとってしまったのです。

 また機械時計技術が産業技術に活かされるのは、ペリーが浦賀に来航して世情が騒然となる1853年に「からくり儀右衛門」と呼ばれた時計・からくり人形職人である田中久重が肥前佐賀藩に奉じて反射炉や蒸気船の製造に貢献し、さらには久留米藩の殖産興業にも尽力した後、明治期に入って電信関係の製作所である田中製造所(東芝の魁〈さきがけ〉)を設立(1875年)してからのことです。それまで、家康に仕えた津田助左衛門以来、有能な時計職人は数多く出たのですが、それらには田中が享受したような自由な環境が与えられなかったために、職人技術が産業技術に昇華〈しょうか〉することはなかったのです。幕府の経済統制策のなした悪行と言わざるを得ません。

2017年2月6日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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