小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

14. 日本の第2の大経済破綻


〔2〕技術者教育は軽視され続けた

(3) 技術者は民営工場にはわずかしかいなかった

 別の章(ここ)で、明治から昭和前期にかけて、基幹産業は専ら官営或いは官僚管理の下にあったと説明しました。これからは、当時の技術者の大半は官営の事業所にいて、民間の工場などにはほとんど配置されてはいなかったということを明らかにしたいと思います。

 ここに、20世紀初頭(2001-02年)の官営と民営の機械製造工場にいる職工数の割合と、工場で使っている蒸気機関等の馬力の総量の割合を表したグラフがあります(下のグラフを参照ください)。石井寛治著『日本の産業革命』(1997年刊)に掲載されていたデータを図示して見たものです。そこからは、驚愕するほどの日本の当時の産業界の姿が見えきます。

出典: 本文中に示した通り。

 官営工場に働く機械職工の数は全体の3分の2(67.5パーセント)であり、機関馬力総量に至っては、全体のおよそ9割(88.9パーセント)を占めています。そして、これは多くの機械職工がいる民営鉄道(鉄道会社は、機関車や車両の製造工場を持っていた)が国有化される以前の数値で、しかも1901年に操業を開始した官営八幡製鉄所の機械職工の数を含んでいないので、この官営工場のシェアはこの統計が示している年の5年後の1906年には、民営工場の建設が進んでいたことを考慮しても、大幅に低下しているということはなさそうです。

 ここで、官営工場の機関馬力総量のシェアが、機械職工総数の割合に比べてもさらに格段に大きいということには重大な意味があります。それは、民営工場に比べて官営工場の方が、さらに機械化が大きく進んでいるということを示唆しているからです。官営工場で働く機械職工1人当たりの使用機関馬力は、民営工場で働く機械職工のそれのおよそ4倍もあります。そして、機械化が進んでいるということは、そこで要求されている機械技術がより高度であるということを意味しています。つまり、当時の官営工場は機械職工の3分の2以上を擁しており、しかもそれらの技術は民営工場の機械職工よりはるかに高度であったということです。

 当時の高度の機械技術を駆使した最大の工場は、造船所であり、ここに民間機械職工の半数以上がいます。そして、民営造船所での職工の技術は、海軍工廠のそれに劣っています。ですから、地域の実情に合わせて(例えば中国大陸の河川でも運航できるよう平底とするなど)1隻ずつ注文設計される貨客船は造れても、建造速度と低価格が要求される国際競争の厳しい標準貨物船を日本の造船所はほとんど作れませんでした。日本の民間造船所は、輸入した中古貨物船の整備や修理に忙しくしていました。

 そして、その他に機械職工が多くいたのは、紡績工場です。紡績機械の開発は進み、その度に工場は大規模化しました。織物工場では量産機械化は進まず、家内工業の域を出てはいませんでした。それでも力織機自体は発展し続け、日本の家内工場は専らイギリス等から力織機を輸入していたのですが、日本市場に合った小幅半木製織を豊田佐吉が発明して(1895年)、今日のトヨタの基礎を築いたことは有名です。20世紀前半で、国際競争力をかろうじて持ちえた機械技術は、この力織機ぐらいであると言っていいでしょう。

 以降、高度の機械技術を必要としたのは、電信、電話、電力などです。そして、前2者は官営とされています。電力は、現代イメージする電力会社ではありません。工場の機関は水力、或いは蒸気によっており、電動機(モーター)はまだ使われておらず、電気は専ら家庭や事務所の電燈を灯すのみに使われていました。その後重化学産業として鉄鋼、肥料等の化学産業が発達するのですが、鉄鋼産業については、官営のシェアが圧倒的に大きいこと、そして1934年の「製鉄合同」により、民営製鉄所が実質的官営工場(日本製鐵梶jに吸収されたことについては別のところ(ここ)で詳しく説明したとおりです。要するに、20世紀初頭以降、年がたっても、民営工場の職工数のシェアがぐいぐいと伸びていくということにはならなかったのです。

 以上のことは、19世紀末から20世紀半ばまで、一貫して機械職工の多くは官営工場で働いているのであり、その技術の水準も民営工場で働くものを大きく凌いでいたということを示しています。これでは、民間産業が振興されるということにはなり様がないのです。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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