小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

14. 日本の第2の大経済破綻


〔2〕技術者教育は軽視され続けた

(2) 技術者養成機関の創設

 技術者の組織的養成の必要性を強く感じた政府は、急いでつくった近代的工場で、それぞれ別個にOJT(on-the-job-training:現場での人材養成)で技術者を養成しようとしました。例えば、長崎海軍伝習所、横須賀造船所貴舎(1870年開設)、電信修技校(1871年)、海軍兵学校の機関科(1873年)、鉄道工技生養成所(1877年)などを創設したのです。同時に、これらで養成した技術者をさらに海外留学させて、より高度の教育に努めました。留学生の中で最も多かったのは、造船(1880年代までの留学生数:21名)であり、次いで機械(同:17名)、土木(同:13名)、鉱山冶金(同:10名)、造兵(同:6名)、化学(同:4名)などで、総勢80名ほどでした(以上、及び以下の一部について、内田星美著『技術移転』〈岩波書店『日本経済史4−産業化の時代(上)』《1990年》蔵〉による)。

 産業革命発祥地であるイギリスでは、技術者は現場で叩き上げるのがよいとされていましたので、留学生の多くは、ヨーロッパの大陸の工学技術者養成機関に学びました。例えば、フランスのエコール・ポリテクニク、ドイツのフライベルク鉱山学校などです。ヨーロッパの大学には、真理や神学を探究するのが目的とされ、技術者養成は大学教育に馴染まないとした近世ルネサンス以来の伝統的な観念があります。

 しかし、そのような固定的な考えから比較的自由であった新生アメリカでは、1860年代にMIT(マサチューセッツ工科大学;ボストン技術学校から改称)が設立され、或いは、コロンビア大学(ニューヨーク市)やコーネル大学(ニューヨーク州イサカ市)に土木、鉱山、機械工学についての学部を置き、技術者教育が始められます。そして、技術者の養成が急務であった日本は、これらの国に倣って、大学で技術者の養成を始めました。

  • アメリカ最初の大学、ハーバードは、神父の養成目的で半官立でつくられた。

  • しかし、その後社会のニーズに合わせて大学は柔軟に発展した。

  • アメリカの大学の大半は、政府によってではなく、富豪の慈善によって建設され、賄われた。

 1886年に設立された帝国大学(1897年に京都帝国大学の設立に伴って東京帝国大学と改名)にも工学部が設けられました。帝国大学は、ベルリン大学が代表例と言われる教授と学生が共に対等な立場で自由に真理と神学を探究するオーソドックスな形の大学(ユニバーシティ)としてではなく、フランスのパリ大学と同様に、国権を発揮するための官僚の養成を第一の目的とする帝国大学とされました。

 そこに工学部が組み込まれたのですから、日本の帝国大学は、大学が何かということについて深遠な考慮を行ってつくられたというよりは、政府官僚(主に文官)と近代産業技術者、さらには、近代医療者を育てるという、喫緊の必要な教育を一カ所でひっくるめて行うという実利本位のものであったと言っていいでしょう。真理を探究する研究機関としての役割は、もともと帝国大学には、ほとんど求められてはおらず、それが、以降の帝国大学、特に東京帝国大学の性格を形づくっていきます。そして、おそらく、その時の基礎的な考え方は、今日の東京大学にも引き継がれています。そのことの意味するところについては、章を改めて(ここ)、詳しく議論したいと思います。

 日本では、上記のような流れで、工場ごとに必要に駆られてOJTで行われていた技術者教育から始まり、数は少ないものの重要な役割を果たすことになる外国への留学生の派遣、官庁ごとの技術者教育機関の設立(例えば、工部省による工部寮→工部大学校)を経て、総合大学としての帝国大学へと教育機関が発展していきました。

 以上は、最も上級の技術者についてのことです。それ以下の多くの工場で必要な技術者養成のためには、大学の設立には僅かに遅れて、まず1881年に東京職工学校が設立され、1890年代には高等工業学校(高工)が全国につくられていきます。そして、20世紀に入る頃には、高工の卒業生数が、大学工学部の卒業生数を凌ぐことになりました。当時、成績優秀でも裕福でない家庭に育った若者は、授業料の高い大学には進めなかったので、高工の卒業生が大学卒業生より資質が大きく劣るということはなかったと思います。

出典: 内田星美『技術移転』(岩波書店『日本経済史4−産業化の時代(上)』〈1990年〉蔵)掲載データを基に作成。

 さて、これら大学工学部や高工の卒業生が一体どこで働いたのか、ということです。1880年代には、大学工学部卒業生のすべては官営工場か、中央政府、或いは地方政府で働いていました(上のグラフを参照ください)。1890年代からは、これらは民営工場でも働くようになりましたが、それでも1910年代までは、その過半がやはり官営工場か政府で働いており、民営工場に勤める者は半数には届きませんでした。

 一方高工卒業生については、1890年代は、官民半数ずつであり、1900年代から1910年代にかけて官の比率が少し下がってもののそれでも4割あり、1920年代に至ってようやく2割台に下がっています。そしてこの時、大学工学部卒業生の官で働く者の割合は、まだ4割近くに達していました。高級技術者についても、官優位という時代は、長く続いたのです。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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