小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

14. 日本の第2の大経済破綻


〔2〕技術者教育は軽視され続けた

(1) 明治初め世界の技術はまだ手の届く所に

 幕末に佐賀藩を初め、製鉄のための反射炉などが開発されていましたし、或いは蒸気機関をつくる試みなども始まっていましたが、それは、輸入された外国製品を見ながら、独自に、或いは外国人の指導を受けながら、いきなり現物を複製しようという試みでした。このことは、逆に言えば、当時の先端的科学技術の成果品の製作を模倣するだけには、基礎的な近代技術教育が必須というほどではなかったということを意味します。

 勿論、それらの試みがすべて成功したということではありませんし、或いは容易であったわけでもありません。例えば、長州藩では、西洋技術を導入して鋳鉄の大砲をつくろうとしたのですが、失敗し、四カ国(米、英、仏、蘭)連合艦隊の下関砲撃には旧式の青銅砲で向かうしかなく、それが大敗を招きました。しかし、一方、例えば佐賀藩や薩摩編の反射炉の建設や、そこで造った鉄を利用した鋳鉄砲の製作のように成功例も出たのです。そのため、佐賀藩はロシア艦隊の長崎来航を退け(1853年)、或いは薩摩藩はイギリス艦船の鹿児島城下砲撃に対して、善戦したのです(1863年、薩英戦争)。

反射炉の仕組みと断面図
〔画像出典:Wikipedia File:Reverberatory furnace diagram.png (反射炉の原理)、File:Puddling furnace.jpg (反射炉の断面図)〕

 ちなみに、反射炉とは、製鉄のために鉄鉱石を溶かす熱を得るために、レンガを組み上げて造った窯の天井をドーム型にして、窯中の熱を天井で輻射して砂鉄や屑鉄などの原料に集中して投射して必要な高温を得る仕組みであったので、そう呼ばれています。言葉がイメージさせるほど、進んだ技術を駆使していたというわけではありません(上の図を参照ください)。つまり、この頃の先端技術は、まだ開発途上で、それなりの教養と熟練があれば、当時の日本人でも手の届くところにあったと言えます。佐賀藩では、蒸気機関車の模型を実際に走らせていますし(画像はここ)、アメリカ東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーの率いる4隻の軍艦(外輪蒸気船)が来航して僅か2年後の1855年には、薩摩藩が自作の蒸気船(雲行丸)を竣工させています(下の図を参照ください)。

薩摩藩のつくった雲行丸の略図
〔画像出典:Wikipedia File:UnkouMaru.jpg〕

 しかし問題は、その頃、イギリスやアメリカでは、近代技術開発が加速していたということです。彼我の技術水準の差が急速に広まりつつあったというのが明治初期という時期だということを理解しておかなければなりません。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
©一部転載の時は、「『小塩丙九郎の歴史・経済データバンク』より転載」と記載ください。



end of the page