小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

14. 日本の第2の大経済破綻



〔1〕先進国から遅れ続けた産業技術

(6) 異次元の技術水準を見せたアメリカ海軍

 弱電技術を軽視した結果、零戦を初めとする日本海軍の艦載機に搭載された無線機は雑音が多くて明瞭な音声を聞きとることができない代物で、アメリカの艦載機が無線を通して司令官の指示を直接受け取って連携作戦を実行したのに対して、日本の艦載機は空母離艦後着艦するまで、操縦士1人の判断で行動するしかありませんでした。一方、アメリカの機動部隊の司令官は、CICのデータを基に、全軍を指揮していました。CICとは、Combat Information Center(戦闘情報センター)の略で、水上や海中にある艦船や空中にある艦載機からの目視や聴音で得られた情報や艦船に搭載したレーダーから得られた日本の艦船や艦載機についての情報を集約して表示したものです。

第2次大戦中に軽空母インデペンデンスに搭載されていたCIC
〔画像出典:Wikipedia File:USS Independence (CVL-22) CIC4.jpg 〕

 今では、日本の自衛隊の艦船にも搭載され、デジタル表示とされているので、最先端武器技術と思われていますが、アメリカは日米開戦半年後にCICを実戦に投入しています。日本の戦闘機操縦士が根性を基礎に戦っていたのに対して、アメリカの戦闘機操縦士は、戦闘情報総合システムの一部として戦っていたのです。太平洋戦争時の日米海軍の属した時代は、同じではありませんんでした。1906年に既に露わになっていた彼我の軍事技術の差は、その後急速に開いていたのです。

 もう一つ、多くの専門家が日本の軍事技術の優秀さを証明するものとして挙げるものに酸素魚雷があります。酸素魚雷は、酸化剤として空気の替わりに酸素を使うもので、その長所は航跡を残さず目視で発見されにくいことと、長距離を走ることでした。自信を持った海軍は、同盟ドイツ軍の武官に見せたのですが、興味は示されませんでした。その理由が伝えられてはいませんが、想像できることは2つあります。距離が長くなっても発射後進行方向を修正できないのでは、高い命中率が期待できないことです。実際、10,000メートル以上の距離からの試射での命中率は2パーセントにすぎなかったと言います。そしてもう一つは、当時既にドイツ海軍は、自動追尾装置を装着した魚雷をUボートに搭載していたことです。ユニークではあったのですが、実戦に向くものではありませんでした。。

 以上は、海軍を中心としたものですが、陸軍の武器技術は、海軍のそれよりさらに劣っていました。日清戦争で旅順港攻略に活躍した28サンチ(センチ)榴弾砲は、国産ですが、イタリアクルップ社製のもののコピーであり、日清戦争では、国産の村田銃で清軍を圧したのですが、日露戦争で使った機関銃はフランス製(オチキス機関銃)でした。つまり、日露戦争での日本陸海軍の主要装備は、ほとんど欧米技術によるものであり、国産技術によってつくられたものではありませんでした。日清戦争から日露戦争に到る間に、日本と欧米列強との軍事技術の差は縮まらず、逆に大きくなっていたのです。

 そして、陸軍は、日露戦争では、近代的装備は大きな働きはしなかったと評価し、以降近代的武器装備の充実より、歩兵の拡充に大きな力を割いていきます。この判断は、科学的なものであるという以上に、砲兵と歩兵の間の派閥争いによるとの指摘もされています(西川吉光著『平和国家の政軍システム:旧軍用兵思想に見る問題点』〈国際地域学界研究12号2009年3月〉による)。

 歩兵優先主義に基づき、近代装備の開発に全力を傾注しなかった結果、日本が戦車を貫く能力を持った自走砲(試製七糎半対戦車自走砲ナト)の開発に成功したのは玉音放送のわずか1月前であり、敵戦車破壊能力を持ち自身は重装甲の戦車の能力においてはアメリカやソ連にはるかに劣っていました。関東軍参謀であった石原莞爾〈かんじ〉が対ソ強硬論から慎重論に転じたのは、満州国境に近いところでソ連陸軍の近代装備を目にして驚愕してからだと言われています。

日本の試製七糎半対戦車自走砲ナトとソ連のT34型戦車
〔画像出典:Wikipedia File:Type 5 Na-To.jpg (自走砲ナト)、File:T-34 Model 1940.jpg (T34型戦車)〕

 実際、1939年の満州とソ連の間の国境をわたって戦われたノモンハン事件では、ソ連軍の戦車の前に日本の戦車はまるで歯が立たず、悲惨な大敗を喫しています。このことは、当時、陸軍トップクラスの武官ですら、自国の軍事技術の客観的評価能力を欠いていたということを意味します。しかし、真実を知った石原は、その後更迭・左遷され、陸軍では対中ソ強硬主義者が圧倒します。ところで、そのような戦闘があったことは、日本国民には一切知らされることはありませんでした。

 アメリカの歩兵の持つ銃器が標準化され交換可能な部品群に支えられて効率的に維持・補給されているのに対して、日本の銃器は、種類は厖大にあり、同じ型でも、違った製造工場で造られた部品は共用できませんでした。アメリカの銃の製造方法が規格化に基づく大量生産方式に代わったのは、18世紀末のことでした。棉繰器の発明者として知られるエリー・ホイットニーが1万丁の銃を軍に納入したのですが、「ホイットニーの小銃は、そのそれぞれの精度高く加工された部品の山から任意にとりだした1セットの部品をヤスリも修正加工もなく、きわめて簡単に組立てられた。それまでの現物合せによる組立とは比較にならないほどコストは下がり、生産スピードは上がった」(三輪晴治著『創造的破壊』〈1978年〉より)のです。

 ホイットニーの業績より1世紀半遅れて、日本はなお標準規格化による大量生産方式というものを理解していなかったことになります。そもそも、陸軍、海軍、造船会社、鉄道院は、違った尺度を使っていました。これは、日本の工業技術がすべて欧米先進国のものをそのまま導入したものであり、それらの国々で使われていた様々な度量衡の表示が、日本にそのまま導入されたことによります〈外務省特別調査委員会による報告書『日本経済再建の基本問題』《1947年》による〉)。度量衡の不統一、部品規格の不徹底は、そのまま日本の当時の産業技術水準の低さを表しています。

 技術史学者の内田星美は、日本の陸海軍の技術の低さの理由を、文官の技官についての蔑視と、それに基づく人事上の冷遇(低いポストと少ない給与)にあると主張し、「これでは、前述のように科学戦に備えて軍備の近代化を唱えても、徹底しなかったのは当然であって、第二次大戦中の軍の指導理念が『聖職』『必勝の信念』『特攻』等の非科学的な精神主義にとどまっていた一つの原因は、技術官差別にあったと言うことができよう」と断定していいます(内田星美著『二つの戦後をつなぐもの』〈有斐閣『技術の社会史第5巻』《1883年》蔵〉による)。

  • 戦国時代の武将たちの経済政策を歴史学者も経済学者も無視している。

  • 明治維新以降の軍事・産業技術の貧困も、歴史学者も経済学者も無視している。

  • 現在の経済停滞が技術の貧困によることを、経済学者は無視し続けている。

 日本の武器技術は、日露戦争開戦前に最も世界水準に近づき、その後は劣後し続けただけでなく、彼我の差は急速に拡大されたのです。そしてそのことは、既に紹介したように、日本が最後まで高性能武器をつくるための基礎となる高級工作機械は最後まで英米などからの輸入品に頼ったということに象徴されています(詳しくはここ)。しかし、日本の歴史学者や経済学者の中で、20世紀前半期での日本の産業技術の低さを認める者は、ほとんどいません。その科学技術についての正当な評価を行えないという歴史学者や経済学者たちの欠点は、今日でも改善されていません。

 経済学者たちは、国の経済の発展は、政府の正しい財政と金融施策によって成し遂げられると主張し続けていますが、産業技術を開発することとの重要さを無視した政策からは、決して発展する経済は生まれません。今の多くの歴史学者も、経済学者も、悟る前の石原莞爾の状態にあるのです。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
©一部転載の時は、「『小塩丙九郎の歴史・経済データバンク』より転載」と記載ください。



end of the page