小塩丙九郎の歴史・経済データバンク

14. 日本の第2の大経済破綻


〔1〕先進国から遅れ続けた産業技術

(5) 弱電技術軽視が敗戦原因の一つ

 日米両国の軍事技術の差はこれには留まりません。太平洋戦争では、アメリカの武器技術はその他あらゆる面で日本を圧倒しました。レーダー、高性能無線機、自動追尾能力を持った魚雷などです。以前にのべたように(ここ)、20世紀初頭にあっては、日本の無線技術は世界最先端に迫っていたのですが、その後半世紀のうちに世界の競争から脱落しました。

 三六式無線機開発から20年余り経った1926年に東北帝国大学の八木英次と宇田新太郎は指向性の強い、いわゆる八木アンテナを開発したのですが、それを応用してレーダーを創り上げたのはイギリスとアメリカであり、日本は交戦時に艦船が電波を発することはあり得ないという思い込みからレーダーの開発に熱心でなく、八木アンテナを無視しました。日本海軍が八木アンテナの効能を知ったのは、シンガポールを陥落させて(1942年)イギリス兵を捕虜にした時に取得したイギリス軍資料にあった“Yagi”が、日本人の名前であると知らされたときが初めてです。

八木アンテナと八木英次
〔画像出典:File:Yagi TV antenna 1954.png (零戦八木アンテナ)、File:Yagi Hidetsugu.JPG (八木英次)〕

 このように、日本人が発明しておきながら、その意味を理解できずに英米人に先に利用されていた技術はこれだけではありません。フェライトというものがあります。酸化鉄を主成分とするセラミックで、強い磁性をもっています。太平洋戦争中に撃ち落としたアメリカの飛行機が搭載していた方向探知機の中に見慣れない棒が入っているのを見つけ、分析してみるとそれがフェライトでした。さらに調べてみると、国内の東京電気化学梶iTDKの前身)がそれを製造していました。この会社は、フェライトの発明者である東京工業大学の加藤与五郎と武井武の二人の師弟研究者と意気投合した若い実業家斎藤憲三が1935年に設立したものです。軍官僚は、自国でフェライトが生産されていることが分かったので、慌てて採用することとしました。

  • 実は、日露戦争以来、弱電技術は日本で脈々と育っていた。

  • しかし、その技術は評価されず、アメリカやイギリスの技術向上に利用された。

  • この背後に、学会での学閥争いの臭いがする。そしてそれはさらに、戦後に続いていく。

 当時の日本では、強電に強い興味を持つ一方で、弱電についての関心は弱いものでした。日本人の多くは、強電→弱電という世界の技術界のトレンドを掴むことができないでいたのです。しかし、フェライトの特許手続きについての不都合と、フェライトの意味を理解したオランダのフィリップス社のその後の周辺特許技術開発により、基本特許について東京電気化学はフィリップス社とクロスライセンス契約を結ばざるを得ない状況に追い込まれることになります。敗戦直後の出来事ですが、これは技術についての社会の無理解が、いろんな形での不具合を呼ぶということの例を示す余談です(森谷正規著『技術開発の昭和史』〈1986年〉より)。

 これらの他にも、昭和時代の初期(1920年代から1930年代)に、日本の弱電技術開発が相次ぎました。それらを列挙すると、(1)電子式テレビジョン(高柳健太郎)、(2)NE式写真電送装置(丹羽保次郎、小林正次)、(3)無装荷ケーブル(松前重義、篠原登)、(7)磁気録音方式(永井健三)などがあります(森谷正規著『技術開発の昭和史』(1986年)より)。これらは、何れも、当時の世界水準に達した優れたものでした。しかし、これらは、日本の産業発展に大きく貢献することはありませんでした。

 松前の無装荷ケーブルは長距離電話を可能にし、丹羽らの写真電送装置は、当時の最先端であったシーメンス(ドイツの電気企業)のものを性能で凌いで、鮮明な(昭和)天皇即位の大典の画像を京都から東京へと送りました。しかし、昭和初期の優れた弱電技術開発は、軍産業と強電産業を重視する当時の日本で大産業に発展することがなく、その産み出す製品が貿易収支の改善に貢献することもありませんでした。日本は、民生工業品産業発展の機会を逸したと言えます。ただ、これらの研究業世紀の積み上げが戦後の弱電技術関連産業の発展の礎となったことは、一つの救いです。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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