小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

14. 日本の第2の大経済破綻



〔1〕先進国から遅れ続けた産業技術

(4) 零戦は本当に優れた戦闘機だったのか?(後篇)

 航空母艦の重要性に気付いた軍官僚たちは、その時初めて日本の航空機性能がアメリカよりはるかに遅れてしまっていることを強く認識しました。そして技術の遅れを取り戻そうとした海軍は、当時の技術能力の常識をはるかに超える仕様を三菱重工業鰍ノ示し、その要求に三菱はよく応えたとされています。そして、零戦が生まれます。開発された零戦の生産に当たる労働者には高度の熟練が要求されました。そしてまた、これを可能とした日本の工場労働者の優秀さが称賛されます。

 しかし、これは、アメリカの航空機設計・生産技術と理念をまったく異にした考え方です。多くの移民からなるアメリカは、伝統的に高い熟練を工場労働者に要求できないので、比較的低い熟練度の工場労働者であっても製品が造れるように、部品をできるだけ規格化して、組み立て工場での摺り合せ工程(例えばキサゲ等の工具を使って部品表面を削り、二つの異なった部品を繋げ合せるなど、工場で熟練労働者が部品に加工を加えて組み立てていく工程)を極力なくすなどしながら、工場での大量生産方式(テイラー方式〈その詳しい説明はここ〉)を産み出していました。

 日本の戦闘機がF1のような作り方をされていたとすれば、アメリカの戦闘機は、精々スポーツカーのような造りであったと言えます。零戦がアメリカの戦闘機と互角で闘えたとは、日本製のフェラーリがアメリカ製のムスタングに立ち向かえたというに近いのです。そして、F1が操縦者を一定の危険に向かわせることを前提としているのに対し、スポーツカーでは、様々な想定される事故について操縦者の生命安全を考えなければなりません。そうしなければ、アメリカ国民は自国で戦われているわけでもない戦場に、自分たちの息子を送り出すことは決して許さなかったでしょう。

 零戦は、防弾ガラスや装甲背当て板がないか貧弱で、機体のジュラルミンも極端に薄いものでした。これらは何れも機体重量を軽くして、操縦性能向上に貢献するのですが、アメリカの戦闘機はそうではありません。零戦は設計段階で、既に特攻機の性格をもっていたのです。しかしそのようなF1並みの性能をもった零戦は操縦が難しく、パイロットは余程長時間の訓練を必要としました。日本の戦闘機は、製造面でも乗員育成面でも、量産化には向いていなかったのです。そしてそれは、日本の工場生産技術が遅れていることが産んだ問題でした。

零戦(上)とグラマンF6Fヘルキャット(下)
〔画像出典:Wikipedia File:A6M3 Model22 UI105 Nishizawa.jpg (零戦)、File:Hellcats F6F-3, May 1943.jpg (グラマン)〕

 そして、技術開発の基礎となる技術の蓄積と開発費用負担力の差は、開戦以降の日米両国の新型航空機開発にたちまち結び付きました。日本の零戦が、日本の航空技術の限界であったのに対し、余力を十分に残していたアメリカは、以降、零戦の倍以上の出力(零戦の940馬力に対して2,000馬力)を持つエンジンを開発し、新型戦闘機(例えば、グラマンF6Fヘルキャット)の戦闘能力は零戦を上回りました。一方、日本は零戦後継機“烈風”の開発に取り組んだのですが、ついに完成することはできませんでした。日本の航空母艦を主軸とする艦隊は、結局のところアメリカの産業技術に負けたのだ、というのが小塩丙九郎の評価です。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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