小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

14. 日本の第2の大経済破綻


〔1〕先進国から遅れ続けた産業技術

(3) 零戦は本当に優れた戦闘機だったのか?(前篇)

 太平洋戦争で制海権を得るには、航空母艦を中心とした機動部隊が最も重要であることを示しました(前項)。そして、日本の航空母艦の建造技術がアメリカに劣っていることを示しました。それでは一方、航空母艦に艦載する戦闘機についてはどうでしょうか?

 ここからは、小塩丙九郎にとっても少々気のめいる記述になってしまいます。太平洋戦争における唯一と言っていいほどの日本人の誇りである零戦について、厳しい評価をしなければならないからです。しかし、現代日本の産業の構造を議論するためには、そこのところは避けて通れません。つらい反省を行うことが、未来の自分をつくることがよくありますが、これもその一つだと覚悟して、以下を読んでください。

 1939年にヨーロッパで第2次世界大戦が始まると、アメリカは、艦船、航空機などの製造量を増やしていきました。1939年に年間2.1千機であったアメリカの航空機製造数は、翌年にはその3倍の6.1千機に、そして太平洋戦争が年末に始まった1941年には19.4千機へと9倍にまで増やしています。ちなみにアメリカは1944年には96.3千機と、平常時の45倍にまで製造量を拡大しています。それがアメリカの航空機産業の実力でした(下のグラフを参照ください)。

出典:Wikipedia “World War II aircraft production”記事中の掲載データを素に作成。

 一方の日本は、1939年の航空機製造量は4.5千機とアメリカの2倍あったのですが、アメリカとの戦争の可能性が随分と高まっていた1941年にも4.8千機とほとんど増やされていませんでした。そして太平洋戦争が始まって、艦載機が決定的に重要であるとわかっても、航空機生産量はゆっくりとしか増えず、それが倍増されたのは戦争が始まって2年もたつ1943年のことでした。そして、生産量のピークは1944年ですが、それは平時の6倍に過ぎません。その結果、太平洋戦争開始後半年間は、日本の連合艦隊の航空母艦積載機数はアメリカを上回っていたのですが、1942年のミッドウェー海戦敗戦後は、あっという間にアメリカに追い越され、その差は勢い良く開き続けました(下のグラフを参照ください)。

出典:山田朗著『大元帥昭和天皇(1994年)掲載データを素に作成。

 日本とアメリカの差は、航空機製造に必要な原材料を得る経済力の差に由来すると考える人が多いのですが、そしてそのこと自体は間違ってはいないのですが、それ以上に両国の工場生産技術の差が問題でした。アメリカでは、1910年にフォードのハイランド工場で完成した大量生産方式は、航空機製造工場にも応用されていました。部品が規格化され、工場労働者が熟練していないということを前提として、現場で摺〈す〉り合せ加工を必要としない精度の高い部品が予め用意されていました。一方日本の工場では、熟練した工場労働者によって1機ずつ丁寧につくられていました。

ニューヨーク州にある戦闘機(Airacobra P39)組立工場
〔画像出典:Wikipedia File:Airacobra P39 Assembly LOC 02902u.jpg〕

 特に零戦の場合には、熟練工が鉄板を接合するために打ち付けられたリベットの頭を一つずつ削るということまで行っていました。戦闘機の空気抵抗を少なくすることが目的でした。それは一定の効果を産んだのですが、しかし熟練工は急には増やせない以上、戦闘機生産量も急には拡大できないということです。しかも、産業技術を理解しない軍官僚は、その貴重な熟練工を徴兵して前線に送ることまで行っています。ますます戦闘機の生産は、滞ってしまいます。

  • 日本人の零戦についての誇りにケチをつけるのは、まことに心苦しいこと。

  • しかし、アメリカの戦闘機製造工場の美しさには、正直、息を飲む。

  • 正しい科学的客観評価を得て、未来を築く糧としたい。

 日本の航空機メーカーが、航空機の大量生産に無関心であったというわけではありません。1930年代から1940年代にかけて、三菱重工鰍竰島飛行機鰍ノ代表される日本の航空機メーカーは、航空機の量産化に挑戦してはいました。しかし、欧米の技術を模倣するという時期が長くて自前の技術を獲得しかけてから時間が経っていないこと、多数の部品を集める機械製品である航空機エンジンの部品を供給する機械工業や鋳物工業が十分に育っていなかったこと、或いはあっても製品精度が劣っていたこと、などからなかなか量産体制が採れず、工場内請負制度という古い様式を克服して「半流れ作業」という段階に到達するのは真珠湾攻撃直前の1941年になってのことです。

 そして、ベルトコンベアが航空機メーカーに導入されたのは、それからさらに2年以上を経た1943年以降のことです(立教大学生岩崎寛論文『戦時日本の航空機開発・生産体制』〈2009年〉より)。しかし、その頃には、航空機生産を支える周辺の産業は既に大きく傷ついていましたし、必要な原材料が南方から運んでこられなくもなっていました。後年、アメリカ人技術者が漏らしたように、“too late”なのでした。

 後年、海軍航空技術廠の技術者であった岸田純之助は、「大量生産は一応第二次大戦中の日本にもあった。しかし、同じ型の飛行機のどれをとっても、極端にいえば、どれ一つとして互換性はありませんでした。故障すると、現場合わせでつじつまを合わせるほかなかった」と書いています(中山茂編『日本の技術力−戦後史と展望』〈1986年〉より)。また、技術評論家の星野芳郎は、「アメリカ戦略爆撃調査団の報告では、ある時期日本の海軍の航空機の作戦有効率は20パーセントだったが、アメリカは常時80パーセントを維持したという」と書いています(前述書による)。どういうことか言えば、日本の生産管理技術水準が低かったので、航空隊にある航空機のうち実戦に出る準備がされているのは、保有機数のうち5分の1しかなかったということです。

 日本の戦後の産業技術発展は、こういった歴史認識に基づく過去の反省からなっています。岸田は続けてこう書いています。「これから、民需の製品を大量に作ろうとすれば、それではすまない。アメリカの品質管理を学ぶことが、再発足する日本にとここからって不可欠だということになった」。しかし今、戦前の日本の産業技術は、零戦技術を賛歌する歴史学者や経済学者によって美化されてしまっています。  

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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