小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

8. アメリカ第2の産業革命


(4) フォードT型を可能にしたアメリカの工場

 すでに、『6. 近代資本主義の誕生』の項(ここ)で説明したように、低価格高性能商品で大衆消費に応えるというアメリカの新産業構造は、短い期間のうちにアメリカを世界一の工業国へ持ちあげました。19世紀初頭にイギリスなどヨーロッパの大国の数分の1しかGDPを持たなかったアメリカは、1850年代にはドイツやフランスを追い抜き、1870年代にはイギリスをも追い抜きました(グラフはここ)。そして、その後アメリカとヨーロッパの国々との間の差は、1920年代末に訪れる大恐慌の時期に至るまで急速に開き続けたのです。

 これも以前に紹介したことですが、アメリカの産業を代表する工業製品の一つが、大陸の広さを克服するために開発された蒸気機関車です(その説明はここ)。蒸気機関車は、多くの工場で造られた様々な部品を組み合わせて完成します。これらの部品を互いに連接し、或いは接触面が互いに円滑に作動するように、部品をやすりで削るなどして摺り合せ、1つの完成品とします。日本人が今日本の製造業の利点を特徴づけると言う「摺〈す〉り合せ型」工業は、この時アメリカで生まれました。

 しかし、大量に生産すると言っても注文生産であり、数も限られる蒸気機関車とは異なり、大衆に大量に配られる工業製品については、この工程に多くの時間がかかる摺り合せ工程を最小限とすることが課題でした。部品の規格化はさらに進み、部品の精度を上げることにより、熟練度が低い職工でも工場で部品を組み立てられるようにする努力が積み重ねられました。摺り合せ技術の優秀さを日本の製造業のよい特徴として現在でも紹介する経済学者が多いのですが、アメリカの産業発展の中では、摺り合せ工程を省くことが常に課題とされていました。

 これが進むとともに、工場には多くの非熟練工が雇われ始めました。そしてそれらの多くは女性でした。多くの工場で、男性の熟練工と女性の非熟練工が混在を始めたのです。当初、工場の生産現場管理は伝統的な親方が請け負っていましたが、生産内容が高度化するに従い、普遍的な技術を持っている親方では間に合わなくなり、その工場の製造に特化して工程管理を行える工場が直接雇用したオペラティブと呼ばれる専門技術者が現れ始めました。伝統的な親方は作業服から背広に着換えて専ら工程管理を行っていましたが、しかしその居場所は次第に小さくなっていきました。こうして、製品の規格化を最大限に追求したうえで、必要な最小範囲に摺り合せ工程を留めて高性能で頑丈な機械を造るというアメリカの近代産業の原型が出来上がり始めます。

 非熟練工が増え始めるとともに、工場での生産過程を科学的に管理しようと言う動きが現れます。その代表が、フレデリック・W・テイラーとその仲間たちが産み出した“科学的管理(scientific management)”で、一般には、“テイラー・システム”と呼ばれています。これは、当時の賃金制が歩合制で、生産性の向上とともに賃金が限りなく上昇することに耐えられなくなった工場主が、出来高単価の引き下げを繰り返していたため、「働けば働くほど賃金が下がる」という不満を口にする労働者との紛争が多発したため、これに対処しようとしたことに端を発っします。テイラーらは、「課業(task)」と言う概念を創り出し、1日の基準仕事量を定め、それより多い仕事を達成した者にのみ割増賃金を支払って、労働者の士気を削がないまま、生産性を向上させようとしました。

テイラーシステムを利用した製鉄工場(1879年ミッドヴェール)
〔画像出典:Wikipedia File:Frederick Winslow Taylor crop.jpg(テーラー)、File:Rambler 6HP Runabout 1903.JPG(工場)〕

 さらに、テイラーらは、工場内の作業を仕切っていた当時の熟練技能者である職長(foreman)の機能を「計画」と「執行」に分離する「職能的職長制」の確立を図りました。このため、普遍的技能(何でもつくれる技術)をもって自己の価値を主張していた伝統的な技能工と基本的に利害が対立したため、テイラー・システムの普及は時に応じて妨げられたましたが、結局は、一般的なものとなります。そしてそのことは、伝統的熟練工の凋落に繋がっていくのです。

 こういう工場生産近代化の努力の積み重ねの上に、フォードの工場は操業が可能となっています。フォード1人で、近代的工場の形をつくり上げたのではありません。そうして出来上がったフォードの工場では、大量生産された規格化部品をベルトコンベアーの上で流れ作業で組み立てていきました。お陰で、フォードは自動車産業に価格破壊をもたらしました(下のグラフを参照ください)。

出典:三輪晴治著『創造的破壊』(1978年)掲載データを素に作成。

 しかし、そのことは新たな問題も産みました。当時工場労働者が1つの工場、つまり1つの企業、に長らく勤続するということはなく、技能の熟練度が上がったと思えば、親方の差配の下に違った工場に移転するのが常でした。それでも、平均勤続年数はおよそ1年でした。しかしフォードの工場では、労働者は1月と居続けることがありませんでした。工場での作業が、あまりに単調過ぎたのです。

 頻繁な労働者の流出に困ったフォードは、1日の賃金を当時の相場の2倍である5ドルに上げて、ようやく労働者の流出に歯止めをかけることができました。そうして高所得を得た労働者は、フォードの自動車を買い、そして自動車の普及とともに郊外に大量に建設された新興住宅地に住宅を買い、文化的な生活送るようになりました。20世紀のアメリカ型近代生活の姿が、こうして生まれました。アメリカの工場労働者は、毎日楽しくない単純労働に耐え、そしてその犠牲の上で生活の豊かさを享受したわけです。

 そのような労働そして雇用のあり方、生活文化のあり方、さらには都市の形、そうしたものすべてが変わっていくのが産業革命です。

 第2の産業革命が起こるまで、親方に雇われ、職人学校で訓練を受けた職人たちは、親方の指図に従って工場に通い、工場の選択、賃金の決定、転勤の指示、賃金の支払い、さらには住居の提供などはすべて親方によっていました。この頃、工場(企業)と職人の間の直接の雇用関係はまだありません。しかし、第2の産業革命が進む中で、労働者は親方の手を離れ、工場、つまり企業、に直接雇われるようになりました。そしてこの自立した親方たちに率いられた職工の集団が、やがて産業別労働組合の仕組みをつくり、その多くが現在も引き継がれています。その代表がUAW(United Auto Workers: 全米自動車労働組合)です。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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