小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

8. アメリカの第2の産業革命


(3) フォードT型は、長い進歩の通過点(後篇)

 1908年にT型フォードが初めて発売される以前から、アメリカで多くの乗用車は生産されていました。しかし、そのすべては小さな町工場で、手作りされた部品を買い集めてきて、これ又小さな町工場で組み立てられたものでした。フォードが現れるまでに、アメリカの自動車メーカーの数は1,000社を超えていたと言われています。当然、価格は高くなり、買い手は医者や弁護士といった高所得者に限られました。自動車は実用的な輸送手段としてではなく、乗馬代わりの金持ちのレジャーの道具と観念されていました。今でいえば、セダンやヴァンではなく、スポーツカーが自動車の主流であったということです。

1903年型ランブラー
〔画像出典:Wikipedia File:Rambler 6HP Runabout 1903.JPG〉

 そこにフォードが現れて、自動車の部品を規格化して、部品を大量生産して、それをベルトコンベアーを使った近代工場のラインで組み立てたのはフォードの大発明であるというのが経済学者たちの説明です。そのことの詳細について、追求してみましょう。

 まず、規格化部品による低価格品の大量生産と言うことに限っては、それはフォードの発明によるものではありません。歴史上最初の発想は、15世紀のヨハン・グーテンベルグの活版印刷術の発明で実現されました。それより印刷は、木版を彫ることによってではなく、予め大量生産された活字を並べればできるようになりました。さらに、18世紀のナポレオン戦争において、イギリス皇帝海軍の用のプーリーブロック(滑車)がブルーネル、ベンサム、マウドスレイの3人によって大量生産されています。

19世紀初頭製造のプーリーブロック
〔画像出典:Wikipedia File:Rambler 6HP Runabout 1903.JPG〕

 また18世紀末には、フランスのレブランスは、現物合せの修正加工を要しない小銃のロック(銃機)を製造しました。そして、レブランスのロック製造より15年遅れで(1798年)、アメリカのエリー・ホイットニーは、1万台の小銃をアメリカ政府に納入したのですが、ホイットニーの小銃は、それぞれの精度高く加工された部品の山から任意にとり出した1セットの部品をヤスリも修正加工もなく、つまり摺〈す〉り合せ工程を経ることなく、きわめて簡単に組立てられました。それまでの現物合せによる組立とは比較にならないほどコストは下がり、生産スピードは上がりました。

 自動車にこの大量生産方式を導入したのも、フォードではなく、ヘンリー・レーランドという名の機械技術者でした。彼の技術はキャデラックに採用され、1908年にイギリスで開かれた自動車コンテスト(ロイヤル・オートモビル・クラブ主催)で、数台の分解されたキャデラックの部品の山から3台のキャデラックをレンチやスクリュー・ドライバーなどの工具を使って、部品には何の修正を施さないで観客の前で組み立てて見せて、表彰されました。フォードは、レ―ランドから、直接教育を受けています。

1907年型キャデラック
〔画像出典:Wikipedia File:Cadillac K (1907) at Autoworld Brussels (8394291773).jpg〕

 ただフォードは、レ―ランドの方法に、スピードという要素を加えました。特殊な専用機械、金型〈かながた〉、治工具〈じこうぐ〉を開発し、そして最後に生産ラインの形をつくったのです(以上、三輪晴治著『創造的破壊―アメリカの自動車産業にみる』〈1978年〉による)。このように、フォードは、古く見れば15世紀、或いは18世紀からのヨーロッパ人たちの長年に重なる大量生産方式開発の上にあるということがわかります。

フォードの組み立てライン(1913年ハイランド工場)
〔画像出典:Wikipedia File:Ford assembly line - 1913.jpg 〕

 フォードが特に画期的であったのは、組立工程をベルトコンベアーを使ったラインに乗せ、工程のスピードをコントロールする方法を思い立ったことです。これが可能になった裏には、19世紀末から20世紀初頭にかけてのアメリカのエネルギー革命があります。それまでは工場の動力は主に蒸気機関でしたが、19世紀末に電力産業が大発展して、工場で電気モーターを使えるようになりました。電気モーターは小型で工場のあちこちに置けたので、工場中にベルトコンベアーを走らせることが可能となったのです。

 フォードの工場は革新的であったのですが、しかし、アメリカの自動車産業技術の革新は、フォードでは止まりませんでした。T型フォードの最初の発売から15年経った1923年に、T型フォードの売れ行きは急激に落ち始めました。屋根については、オープントップ→ソフトトップ→ハードトップ、という変化はあったのですが、しかしボディーはすべて黒1色でスタイルもすべて同じというのでは、消費者に飽きられ始めたのです。

 第1 に、低所得労働者と同じ自動車に乗せられた富裕者が不満を持ちました。低所得者ですら、せめて自動車くらいは立派なものに乗りたいと考える者が出るようになりました。低価格で、しかも多様なデザインの自動車というのが、時代のニーズとなりました。そして、これに応えたのがGM(ゼネラル・モーターズ) のアルフレッド・スローンです。設計を標準化し、部品を規格化して大量生産による価格低減効果を活かすというまでは、フォードと同じでしたが、スローンは同じシャーシ(車体枠)の上に違った排気量のエンジンと違ったデザインのボディを乗せる方法を編み出しました。そして、それをT型フォードを3割程度超える価格で実現したのです。

1920年代のGMの多彩なラインアップ

 GMは、点火装置や変速機についても、フォードより先を行きました。スローンの売り出したポンティアックとシボレーの売れ行きは、忽ちのうちにT型フォードのそれを凌ぎました。こうして、低価格、多様、スタイリッシュ、というアメリカの20世紀文化の象徴としての自動車が生まれたのです。今では当たり前のモデルチェンジという概念を産み出したのも、スローンです。1920年代のGMのスローンによって、自動車産業技術は完成したと言っていいでしょう。

 以降、GMのフォードに対する優位は、現在に至るまで一度も覆ったことはありません。そしてこのスローンの開発した多品種大量生産という自動車生産技術をさらに上回る革新的な自動車製造技術は、今日に至るまで開発されていません。“カイゼン(改善)”はたくさんありますが、“革新”はないのです。(現在世界最高と言われるトヨタの技術とは一体何であるのか、ということについては別のところ(ここ)で詳しく説明します)。

 アメリカの20世紀初頭の自動車産業を産んだのは、フォード1人の大発明であったというのではなく、フォードは長い産業技術発展の積み重ねの1つのエポックであったに過ぎず、そしてそれは10数年で上書きされていったということです。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
©一部転載の時は、「『小塩丙九郎の歴史・経済データバンク』より転載」と記載ください。



end of the page