小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

14. 日本の第2の大経済破綻


この章のポイント
  1. 日露戦争で、日本の軍事・産業技術の水準は一旦先進国に迫ったが、その後産業技術開発と技術者の養成が軽視されたために、日本は世界の産業技術の最先端との距離をどんどん広げていった。

  2. 日本は20世紀前半期を通して、先進国に高付加価値の工業製品を輸出する産業技術力をもつことができず、第1次大戦中を除いて、日本の貿易収支は常に赤字であり続けた。

  3. 特に国内での弱電技術の開発成果を無視した日本は、太平洋戦争直前にはアメリカと大きな軍事技術格差を抱えており、艦船、航空機などの量ではアメリカの太平洋艦隊に対抗できていたとはいえ、質の面では大きく劣り、近代制を互角に戦える状況にはなかった。

  4. 20世紀に入っても、自由な産業体制は1度も、官僚からも経済学者たちからも求められることはなく、産業者たちの中には官僚との癒着を強めることによって企業の売上と利益を獲得する風潮が強く、それらのことは次第に日本の産業活力を蝕んでいった。

  5. 第1次大戦後の不況に追い打ちをかけるように起こったアメリカ発の大恐慌により、日本も恐慌状態(昭和恐慌)に陥り、果断な財政政策を実行した高橋是清蔵相がその状態を一旦解消した。しかし、是清は弱体化する産業構造を変革することなく、是清暗殺後、経済状態は急速に悪化して、明治政権樹立後3四半世紀後の1945年に大経済破綻した。


〔1〕先進国から遅れ続けた産業技術

(1) 日本海海戦を支えた国産先端技術

 多くの歴史学者は、明治期以降に、日本の産業技術の発展は目覚ましく、それが世界最大の戦艦や無敵の零戦を生むまでになったと主張しています。しかしそれは余りにも過剰な自己礼賛です。明治以降の産業技術開発の説明は、いつも輝いているのですが、それは事実にまったく反しています。明治・昭和が一体どういうものであったのかということは、日本の産業技術開発の様子を見ればよくわかってきます。

 明治の半ばまで、日本の技術開発にはまだ希望がありました。それは1905年にロシアのバルチック艦隊と日本の連合艦隊との間で戦われた日本海海戦によく現れています。この戦いで日本は大勝利を得るのですが、戦闘を勝利に導いたのは、東郷平八郎元帥の果断な指揮とそれを援けた秋山真之〈さねゆき〉作戦参謀であると歴史学者は説明しています。

旗艦三笠艦上 左上は東郷平八郎、右上は秋山真之
〔画像出典:Wikipeda File:MIKASAPAINTING.jpg 、File:T?g? Heihachir?.jpg(東郷平八郎)、File:Akiyama Saneyuki.jpg (秋山真之) 〕

 戦闘は、司令官と参謀がそれぞれ優秀でないと勝てませんから、その説明が間違っているというわけではありませんが、この説明の大問題は、日本海海戦を勝利に導いた懸命な技術開発の努力が陰にあったことをまったく無視していることです。歴史学者の手にかかれば、常に人格と根性が戦闘の帰趨を決めるということになるのですが、一般には、戦闘の勝敗を決める最も重要な要素は戦闘に用いられた武器の量と質です。司令官と参謀が無能ではそれも意味をなさないのですが、しかし武器の量と質が敵より大きく劣っていては戦闘になりません。

 日本の連合艦隊が揃えた主要艦は、1隻の旧型艦を除いてすべてヨーロッパ製のものです。このためロシアのバルチック艦隊とは性能に大きな違いはありません。日本の連合艦隊が優れていたのは、敵鑑を破壊する砲弾、砲弾を破裂させる信管、そして司令官に遠くから情報を伝える無線の3つの技術が当時の世界の最先端近くにあったことです。そしてこれらについて、日本のものはロシアのものを凌いでいました。

 日本の連合艦隊の発する砲弾に使われた下瀬火薬は、海軍技師下瀬雅允〈まさちか〉が発明したピクリン酸を主成分とする火薬で、敵艦に着弾した時に甲板に穴を空けるというのではなく、甲板上で火災を起こして相手の海兵の戦闘能力を失わせるという効果をもっていたものでした。下瀬火薬を浴びた戦艦は、全体が炎に包まれて、急速に戦闘能力をなくしました。

 そしてこの砲弾を確実に破裂させたのが、海軍大佐の伊集院五郎が考案した伊集院信管と呼ばれるものでした。高い命中率と高い破裂確率がもたらした効果的な敵艦隊の大火災は、艦隊全体の戦闘能力を急速に低下させました。

下瀬雅允(左)と伊集院五郎(右)
〔画像出典:Wikipeda File:Shimose Masachika.jpg (下瀬雅允)、File:Ijuin Goro.jpg (伊集院五郎) 〕

 そして、第1の功は逓信省電気試験所技師の松代松之助にあるというべきかもしれません。松代が開発した三六式無線機は、長距離無線通信を可能とし、例えばバルチック艦隊を最初に発見した信濃丸からの報告は、この発信機により185キロ離れたところから届けられたものです。これが届けた情報により、連合艦隊は津軽海峡に向かうことなく、対馬海峡で敵を待ち伏せすることができました。

 無線電子機が発明されたのは、日本海海戦よりわずか10年先立つ1895年で、しかも発明者はロシアのアレクサンドル・ポポフでした。一般に無線機の発明者はイタリアのグリエルモ・マルコーニであると信じられていますが、マルコーニは無線電子機の発明者ではなく、システムの完成者(1897年に、マルコーニ無線電信会社を設立)です。そして松代は、ポポフによる無線電信技術の発明よりわずかに2年遅れた1997年に無線電信の通信に成功しており、その後開発された三六式無線機は、日露戦争に先立つわずか1年前に海軍に採用されています。1901年には、マルコーニは既に大西洋横断無線通信に成功しているので、三六式無線機は世界最先端であったとまでは言い難いのですが、日本海軍の新技術の理解と取り込みは誠に機敏であったと言っていいでしょう。

 日本海海戦での勝利は、この当時最先端の武器、下瀬火薬、伊集院信管、三六式無線がなければ、まことに危うかったと小塩丙九郎は考えています。今に伝わる東郷神話は、歴史学者の人物(根性)偏重、技術(合理性)軽視の姿勢の結果であると言わざるをえません。

  • 日本海海戦は、日本の技術者の勝利でもあった。

  • しかし、海軍でも、そして特に陸軍では、軍事技術が勝利に貢献したことは評価されなかった。

  • 以降、海軍は艦船の数を、陸軍は歩兵の数を増やすことだけを大事とした。

 そしておそらく、この3つの技術が、日本が20世紀前半時までの間において開発できた世界水準の軍事技術のすべてであったと言ってもいいのではないかと思います。若い皆さんの中で太平洋戦争に特に詳しい人は、太平洋戦争で使われた零戦、九六式艦機(何れも三菱重工業叶サ)、二式飛行艇(川西航空機叶サ)を挙げるかもしれませんが、日本のその時期の航空機技術については、小塩丙九郎は大いに疑義を抱いています。そのことについては、後に紹介します(詳しくはここ)。

 どうしてこの時期にだけ、しかも一挙に3つも、さらに言えば日本海海戦に直接役立つ新技術が現れたのかということは、どう考えてもその理由を明快に説明することはできません。ただ、想像できることは、日清戦争黄海海戦(1894年)から日本海海戦に至るまでの時期には、海軍はまだ幼少期と言っていい時期にあり、質、量両面において海軍官僚たちがまったく自信を持っておらず、あらゆる近代技術の導入と開発について誠に真摯な態度で向き合っていたのではないかということです。「使えるものは何でも使ってやれ」と言った、若者の覇気を感じます。

 しかし大敵ロシアを打ち負かした海軍官僚たちは、陸軍官僚たちと同様に、根拠のない自信をもつことになり、東郷元帥と乃木元帥を軍神として崇め、以降軍事技術開発に大きな力は割かれることがなくなりました。そして自由のない市場と軍事技術開発に理解のない軍官僚のいる国で、産業技術開発は軽視され、欧米先進国との技術格差は広がり続けることになりました。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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