小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

13. 近代資本主義から遠ざかった明治・昭和


〔2〕小資本も巨大資本も自由ではなかった

(7) 明治政府の建てた経済体制とは?(後篇)

 戦後のアメリカの資本主義体制については、ケインズ経済学とか、新古典経済学とか、マネタリズムとか、ニューエコノミー論とか、時代の変遷とともに幅広く多様な資本主義論が展開されるのですが、日本の経済学者の議論はそれを追いかけて、それがどう日本に適応できるかとか、或いは適応すべきではないといった議論に終始して、日本独特の基本的経済構造に立脚した経済論は展開されていません。言いかえれば、アメリカで展開される経済論の成果の一部を日本の経済構造の上につまみ食い的に移植すべきかという議論が展開されるのであって、日本とアメリカの経済構造の基本的な違いを明確にした上で、それをどう評価し、或いはどう適用すべきかという議論はされないのです。

 そもそも、アメリカの経済構造変革を科学的に精確に捉えることすらしていません。(小塩丙九郎のアメリカの経済構造変革についての理解はこの章この章で詳しく述べています)。しかし、アメリカの近代資本主義に基づく経済体制を前提とした諸議論の成果の一部を、基本構造がまったく異なる日本の経済構造に移植しようとしても、それが有効に実現できるはずもなく、そして実際にできてもいません。だから日本経済は、有効な処方箋が提案されないままに、既に四半世紀にもわたって停滞しているのです。

 要するに、日本の経済学者たちが、大隈たちが打ち立て、現在に至るまでの経済構造を決定したことを評して、日本の資本主義体制の基礎を築いたと高く評価するとは、実質的には、ドイツの管理経済構造に近いものを明治政府がつくったのは偉いと言っていることに等しく、ドイツと英米の基本的な違いを無視するかの如く「欧米先進国に倣って」という表現が往々にして採用されているのは、経済学者たちが意図して一般日本人を錯誤に導いているのだ、というのが小塩丙九郎の考えです。

 明治期に入ってから、政府が統制したいわゆる専売品は、煙草(1876年開始)、樟脳・樟脳油(1902年開始)、塩(1905年開始)、アルコール(1937年)に限られますが、銑鉄の大半は官営工場で造られていましたし、幹線鉄道は官営でしかなかったなど、実質的に専売とされていた商品やサービスは多いのです。しかし、この項の主張は、そのような狭い意味での専売制の徳川期から明治期への継続のみのことを言っているのではなく、先の吉永の主張にもあるような、近代資本主義を否定した全面的な統制経済体制のことを含めてまで言っていることは、断っておきたいとおもいます。

 このように、明治初期の経済政策は、幕末の西南雄藩の統制経済体制の延長上にあるのですが、しかし問題は、幕末には、西南日本雄藩それぞれが市場での競争主体となっていたのに対して、維新後は政府が統一されたことにより、市場の自由な機能がほとんど完全に取り去られたことです。幕末に西南日本雄藩の経済政策がそれなりに機能したのは、自身が競争経営体であったからであったのですが、維新後には、その自由競争する企業体が市場から消えてしまいました。そしてそのことは当然、経済振興に対して大きな阻害要因になります。

 しかし、維新政府の官僚たちは、そのことに気が付いていません。例えば、近代技術導入に全国一熱心であった佐賀藩から出た大隈重信(当時大蔵卿)も、自由経済市場についての理解はなく、そして、国家管理→国家統制経済体制が着々と築かれていくことになりました。そして現代日本の多くの経済学者たちの理解は、大隈と同様のものであり続けているのだ、と小塩丙九郎は考えています。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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