小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

14. 日本の第2の大経済破綻


〔2〕技術者教育は軽視され続けた

(4) 日本の産業技術は低い丘と際立つ峰

 ただ、このことは、日本の産業技術開発が停滞していたということを言っているわけではありません。日本の産業者や工業技術者は、与えられた厳しい環境の中ではよくやっていました。それに、必ずしも満足な機械や設備を与えられてはいなかった機械技術者たちは、機械の不足を自らの熟練した技能で補って、産業技術開発に貢献しました。

 そうして、ドイツの合成染料(例えばインジゴ〈合成藍〉)に対抗する合成染料、機械工業の基礎となる特殊鋼材(日本特殊鋼梶j、日立製作所鰍フ国産技術主義による大型発電装置など、つや消し電球や二重コイル電球(東京電気梶j、真空管や写真電送装置(日本電気梶j、写真機(六桜社〈小西六鰍フ前身)〉など、彼らが開発した先端技術は数々あります(以上、内田星美著『二つの戦後をつなぐもの』(有斐閣『技術の社会史 第5巻』〈1983年〉収蔵による)。ただ、それらは、外国技術の先端近くまで追いつくのがようやっとであったということです。そして、それらの製品はほとんど輸出されず、豊田の力織機のように日本の貿易赤字低減に貢献することはできていません。

 それでも、総合的な産業技術力が開発されていない当時の日本で、これだけ多種の工業製品が自力で完成されたということは、ある意味、多いなる驚きです。しかし、このことについては2つの大きな問題があります。1つは、これらの成功例が連なって、高くて長大な山脈をなしていたというより、これらは、なだらかに続く丘陵の処々に孤峰のごとく聳〈そびえ〉えていたということです。だから、例えば裾野が広くて夫々の部品すべてが品質と性能のよい部品がなければ完成できない自動車などの総合機械はつくれません。


 1911年、橋本増治郎の快進社鰍ヘ、国産自動車第1号を製作していますが、しかし、その性能は不十分で、工業品としての国際競争力は持ちませんでした。そしてもう1点がより深刻です。これらの製品が完成できたのは、不満足な性能しか示さない工作機械から造り出された製造機械を職工たちがだましだましに使いながらその欠点を補ったからです。

 ここで多くの歴史学者や経済学者たちは、日本の職人とも呼ばれる職工たちの技術をほめ、そして日本民族の優秀さを讃えて話を終えるのです。しかし、それでは機械の生産工程の中で、摺〈す〉り合わせ工程を減らすことができません。摺り合わせ工程を多く伴うことの欠点は、職人の優秀さに応じて製品の精度が違うこと、そしてこの複雑な工程が製品の大量生産の大きな障害となることです。

  • 日本の官僚や経済学者は、日本のメーカーの摺り合せ技術を礼賛する。

  • アメリカでは、19世紀より摺り合せ工程を排除する努力が延々と重ねられた。

 戦後に、トヨタなどがこの日本人の特性を外国製品との差別化の武器に転じて、戦後の日本の工業製品躍進の秘訣のように言われるようになるのですが、この時代の日本では、部品をつくる製造機械の精度がおおいに不十分なのであり、それがアメリカに対する後進性と言わざるを得ない段階にありました。量産化ができないということは、1つには製品の低コスト化を妨げ、もう1つには製造に要する時間を長くします。後者は、航空機などの武器の製造にとっては、致命的でした。

出典: 総務庁統計局監修 日本統計協会著『日本長期統計総覧 第3巻』(1988年)の掲載データを素に作成

 日本の技術者や機械職工の最も優秀な部分を多く集めた陸海軍工廠の生産する武器が世界最先端水準に達せず、むしろ先進国から距離を離されていったということは既に紹介しました(ここ)。日本の最優秀部分がそうであるのですから、民間産業での技術が世界水準に達することはより難しいことでした。その結果、日本の輸出が生糸と茶に頼るという明治初期の貿易構造は、太平洋戦争が始まる頃になっても、茶が綿糸と織物に置き換わるというだけのことで、近代的工業製品のほとんどは、日本から日本が占領、或いは統治する台湾、朝鮮、満州と言った以外の地域に輸出されることはありませんでした。

 日本は、武器輸出国でなかっただけでなく、その他民生工業製品の輸出国でもなく、輸出品目構成で見る限りにおいて、日本はずっと開発途上国型産業から抜け出せなかったのです。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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