小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

14. 日本の第2の大経済破綻


〔2〕技術者教育は軽視され続けた

(5) 技術者養成は重要だと考えられていなかった

 それでは、産業技術者の養成は、明治政府の官僚たちはどれほど重要と考えていたのでしょうか? 多くの歴史学者や経済学者は、明治政府の重要政策が殖産興業にあったのであり、そのため、技術者の養成も熱心に行われたと説明しています。既に、20世紀前半までの、日本の産業技術開発の成果はそれほど華々しくはなかったということを説明してきましたが、それでは、政府の懸命な技術者養成の努力は大きく報われなかったのでしょうか? 

 小塩丙九郎の答えは、違います。明治政府は、文官の養成に比べて、技官や産業技術者の養成は同等に重要であるとは考えていなかったのです。以下に、それをはっきりと示すデータを、紹介します。

 1870年代後半から1880年代前半に至るまでは、帝国大学工科大学校(当時、総合大学制度の下に単科大学が置かれていた)の学生が最も多く、全体の4分の1から3分の1いました(下のグラフを参照ください)。次いで、医科大学の学生数が全体のおおよそ4分の1ほどおり、法科大学の学生は、何れの期間にも7分の1ほどでしかありません。それが1886 年の帝国大学制度が制定されて以降、急激に文官養成に大学教育の重心が移ります。

出典: 立花隆著『天皇と東大』(2005年)掲載データを素に作成。

 法科大学(当時は、法学部と経済学部が未分離)の学生数割合が3割から4割に達し、それに伴い工科大学と医科大学の学生数の割合が下がりました(但し、学生総数が急速に増えているので、絶対数が減ったわけではありません)。そもそも、法科大学の学長が、東京帝国大学の総長を兼任していました。日清戦争が勃発するに及んで、工科大学生数が急増されるのですが、しかし、20世紀に入って以降、日露戦争を経験してもなお、法科大学の学生数割合は、爆発的と言っていいほどの増加を示し、1910年代後半には、学生総数の半分が法科大学生となります。

 1920年に経済学部が分離された法科大学のシェアは急速に下がりますが、しかし、それでも法科大学生の割合は常に3割近くを占め、他を圧しています。そして、経済学部を含めた文系の学生の割合は、1930年代末から1940年代にかけて戦争が激しさを増すにつれて工学部の学生割合が急増するに従って減少するのですが、しかし、法科大学の学生数は、その首位の座を他に譲ることは敗戦を迎えるまで一度もありませんでした。

 要するに、東京帝国大学は、一貫して政府官僚(文官)を養成することを第1として、技術者を養成することを第2としたのです。そしてその上に、大学は、技術者養成を専らとし、技術研究を重要視していません。工学部の他に基礎科学を研究する理科大学の学生数割合は、帝国大学制定以降、常に全体の20分の1ほどの低い水準でしかありませんでした。例えば、産業技術開発に極めて重要な役割を果たす数学も、その重要性について一度も理解されることはありませんでした。これでは、日本の産業技術が、海外先進国の最先端のものを模倣するにも十分ではなく、ましてや、世界最先端の革新的技術を自力で開発することなど望むべくはないということになります。

 そして、軍部官僚が政府内での勢力を確立した20世紀以降にあっては、多くの若者、特に裕福でない家庭に生まれて大学や或いは高工に通うことすら経済的に困難だが、しかし学業優秀な者は、競って海軍兵学校と陸軍士官学校に進学しました。太平洋戦争前には、「一高、三高、海兵、陸士」という言葉がありました。これは、東京帝国大学に入学する者の多くが通っていた第一高等学校、京都帝国大学に入学する者が多く通っていた第三高等学校、海軍将校を目指す者が通った海軍兵学校、そして陸軍将校を目指す者が通った陸軍士官学校が入学困難校として同列であるということを表した言葉です。さらには、日露戦争直後には、「末は博士か大将か」という言葉がはやり(「末は博士か大臣か」という言い方もありました)、(旧制)高校から海軍兵学校や陸軍士官学校に入り直すという風潮すら出たと言います。

 第一高校と第三高校の歴代卒業生数の累積合計は、およそ3万人、そして陸軍士官学校と海軍兵学校の卒業生の合計はおおよそ4万人と、数もほぼ同じであることから見ても、陸軍や海軍の将校候補生たちもすこぶる優秀であったと見ていいでしょう。そしてそれらの学校の卒業生のうち、陸軍、海軍ともそれぞれの大学(陸軍大学と海軍大学)に進んだ者はそのうちおよそ1割(年によって、その割合は大きく変化しました)で、特に陸軍大学へは士官学校で優等な成績を残した者だけが進学できました。つまり、大蔵省官僚になるのが東大法学部の中でも選り優れた優等生であったように、陸海軍大学を卒業して陸海軍の幹部になる者は、大蔵省入省者とおおよそ同等なほどに学業優秀であったということです。

  • 明治時代初期、各省は技術者教育に積極的だった。

  • 帝国大学に教育機関が集約された途端に法学最優先となり、その程度は時代とともに増した。

  • 陸海軍でも、アメリカと違って技術教育は軽視された。

 つまり、日本は最も学力の優れた若者の半分を、海軍兵学校と陸軍士官学校にやり、そして残された半分を優先的に法学部に集中させたのです。経済学者たちは、殖産興業政策の下にあって、政府は技術者を懸命に養成したと説明するのですが、しかし、それは十分な程度からははるかに遠かった、というのが小塩丙九郎の意見です。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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