小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

13. 近代資本主義から遠ざかった明治・昭和


この章のポイント
  1. 明治維新から太平洋戦争敗戦前の昭和前期まで、日本の基幹産業は官業として起こされ、或いは民業であったものは官業に移された。

  2. 製鉄産業、鉄道産業、造船産業、電力産業、情報産業はすべて官僚管理の下に置かれた。

  3. 小資本は株仲間制からさらに強化された同業組合制度によって市場管理され、官僚の庇護により生まれた巨大資本は、財閥という形を取りながら、実質官僚支配が強まり続けた。

  4. 巨大企業の所有と経営の分離は進み、経営権は遂に官僚の手に握られた。

  5. 鉄道産業が国有化される過程で、日本の資本主義の父は近代資本主義と決別すると宣言し、反対したのは技術官僚1人であった。

  6. 明治政府官僚に、自分たちが近代資本主義から遠ざかっていったということについての理解はなく、そのマインドは現代の多くの日本の経済学者に受け継がれている。


〔1〕民業の官営化が進んだ

(1) 日本初の近代製鉄は民間人が成功させた

 多くの経済学者が、明治新政府は、民間産業振興に多大な努力を傾注し、官営企業を民営化するなどしたので、日本の民間の近代産業が発展したと主張しています。小塩丙九郎は、その説明は事実に反していると考えています。本当に明治維新以降3四半世紀にわたって日本で起こったことは、まずは官業が興され、そしてさらには近代的民業までもが次々と官営化されていったということです。どちらの主張が正しいのか、それをこの章で追求してみたいと思います。

 まずは、国の産業の最も基本的なインフラである製鉄産業についてです。近代の日本の製鉄は、釜石から始まります。南部藩(今の岩手県北部と青森県東部)の藩医を父に持つ高島高任〈たかとう〉は、長崎で探鉱術を学んだ後、水戸藩主の徳川斉昭〈なりあき〉に招かれ那珂湊〈なかみなと〉に反射炉(この頃主に大砲用の鉄を鋳造するために使われた炉)を建設したのですが、よりよい原料を得るため良質の鉄鉱石を産する釜石に西洋式高炉をつくるのがいいと考えられました。

 それまで日本では、主に砂鉄を原料としたたたら製鉄という伝統的な方法で鉄はつくられていましたが、砂鉄には不純物のチタンが含まれているので、近代製鉄には不向きと考えられたからです。そうして釜石で、銑鉄〈せんてつ:鋼の一段階前の鉄〉の生産に成功しました。ちなみに、たららとは炉に風を送り込むために工人たちが踏み続ける鞴〈ふいご〉のことです。ヨーロッパでは早くから水力により鞴を動かしていたのですが(詳細説明はここ、日本では最後まで人力が使われていました。

 明治維新後、新政府の工部省(今の通商産業省の前身)は軍器生産の素材を得ることを目的に、釜石に製鉄所を建設することを計画しました。その実行に当たって、工部省は斉昭に奉じた高任の案に従わずに、ドイツ人技師の案により大型施設を建造したのですが、結局安定した銑鉄の生産に失敗します。現地の状況を理解しないで十分に供給のめどが立たない木材を燃料に選んだのが失敗の原因だとよく言われますが、結局は、製鉄技術をよく理解しない官僚と、日本の実情をよく理解しない外国人お雇い技師のコンビが産んだ必然の結果であった、と小塩丙九郎は考えています。

  • 明治の初めから、官僚の外国人崇拝は始まっている。

  • 官僚は技術のことは自分で理解していなくてもいい、という風潮も同時に芽生えている。

 この頃福沢諭吉は、「日本の役人共は、一時国の改革に骨は折りて手柄もありし者なれども、固〈もと〉より知識聞見は少ない」、そのためかえって「外国人を雇てこれを懐中宝剣と為し、この宝剣に依頼してみずから衛〈まも〉らんとするの勢い」がある」(1875年『覚書』)のであり、工部省の技術官僚は、「洋風に心酔して徒〈いたずら〉に国財を費し、民間の工業未だ起らずして国力早く既に消耗するは、予言者を俟〈ま〉たずして明なり」としるしています(1877年、同上)(飯田賢一著『鉄の100年 八幡製鉄所』〈1988年〉より)。このとき既に、日本人、特に官僚、の西洋人崇拝が始まっていたというわけです(明治初期の官僚がいかなる者であったかについてはここに詳しく説明しています)。

 当時、鋼鉄の生産を自ら行いたいと考えていた海軍は、釜石製鉄所の設備を横須賀に移したいとして、その無償譲渡について大蔵省の了解を得るのですが、その直後に釜石製鉄所は、遠江国〈とうとうみのくに;現静岡県〉生まれで島津藩の御用達を勤めていた田中長兵衛に払い下げることが決定されます。当時大蔵大臣であった元薩摩藩人の松方正義が長兵衛に買い取ることを勧めたと言われています。これが海軍と大蔵省との争いに発展しなかったのは、海軍は薩摩閥であったからではなかったかというのが小塩丙九郎の推測です。また、工部省も反対しなかったのは、自らは失敗したという負い目があった上に、土佐藩閥が薩摩藩閥に対して有力ではなかったということでしょう。田中は、幸いに2人の有能な日本人技師を得て、高任の建てたものと同形の高炉を建設して、1886年に出銑に成功します。

 ちなみに1887年に長兵衛が政府から釜石製鉄所を買い取った時に支払ったのは1万2,600円という金額ですが、これはその2年前(1885年)の政府の財産評価額の1.7パーセントに過ぎず、或いは政府の投下資本額の0.5パーセントにしか当りません(浅田毅衛著『明治期殖産興業政策の終局と日本資本主義の確立』掲載データを素に計算)。大蔵省は、一旦無償で海軍に譲渡することを決めていたのですから、長兵衛に無償に近い額で譲渡しても経理上の問題はないことにできたのかもしれません。或いは、工部省でも失敗したほどの施設を再開発するのだから、多額の補助金を充ててもいいのだという言い逃れを考えていたのかもしれません。しかし、26件ある官営施設の払下げの中で、このような破格の低額での処分は、他に例を見ません。釜石製鉄所の払下げのあり方そのものについては、少し合点がいきませんが、実態はよくわかりません。


田中長兵衛と釜石製鉄所
田中長兵衛と釜石鉱山田中製鉄所の30トン高炉
〔画像出典 Wikipedia File:Chobei Tanaka.jpg (田中長兵衛)、File:Tanaka iron works, Kamaishi mine 07.jpg (釜石田中製鉄所高炉)

 釜石製鉄所を得た長兵衛ですが、国内産の砂鉄を原料とし、木材を燃料にした製法では、増加する需要に応えきれないので、長兵衛は冶金学者の野呂影義を顧問に迎えて、コークス(石炭を乾留した燃料)を燃料とした銑鉄の生産にも成功しました。長兵衛と野呂のコンビはこのように、見事に近代製鉄に成功するのですが、しかしこのあと製鉄業が民営事業を中心として発展することはありませんでした。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
©一部転載の時は、「『小塩丙九郎の歴史・経済データバンク』より転載」と記載ください。



end of the page