小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

13. 近代資本主義から遠ざかった明治・昭和


〔1〕民業の官営化が進んだ

(2) 民営製鉄産業の道が閉ざされた

 当時の鉄の需要者としては、陸海軍が先行していました。陸海軍は、当初より軍器を自ら製造することとして、それぞれに工廠〈こうしょう〉或いは造船所を運営していました。そして、鋼材も内製しようとしていたのです。この背景には、普仏戦争(1870−71年)でのプロイセン(ドイツ)の勝利の大きな原因に、プロイセンが使った鋼鉄製のクルップ砲の威力があり、これ以降、世界は「鉄の時代」から「鋼鉄の時代」に移ったという観念があります。そして、釜石製鉄所が製造した銑鉄は、実験の結果、軍器の製造材料として外国産のものに匹敵するとの評価を受けました。そこで陸海軍は、釜石製鉄所から銑鉄の供給を受けて、自ら鋼材をつくろうとしたのです。

 そして、日清戦争(1894−95年)が時代の雰囲気を激変させました。強い軍を持つために大規模な製鉄所をつくるべきとの世論が一挙に盛り上がったのです。当時既に多くの民間製鉄所がつくられていました。ただそれらは、いずれも小型で銑鉄を製造するにとどまっていました。それでは不足で、銑鉄から鋼鉄までを一貫して製造する大規模製鉄所の建設が必要であるというのです。


 銑鋼一貫製鉄所をつくれという議論の先頭には、釜石製鉄所を成功させた野呂がいました。野呂は、官営の銑鋼一貫製鉄所をつくるべしと強く主張しました。なぜ野呂が官営に拘ったのかは、それを伝える資料が見つからないのでわかりません。ただ、野呂は官僚養成を一義とし、官尊民卑の風潮の強かった東京帝国大学の工科大学の教授であり、国の産業政策の根本となる事業を国営で行うというのは、野呂にとって自然な発想であったのだろうかとも思います。

 野呂は、製鉄所は、軍器用の鋼材と民需用の鋼材を同時に生産し、軍備強化とともに、鋼材輸入割合を半減して日本の経済負担を減らしたいとも考えていました。つまり、野呂は自らの両肩に国運をかついでいたのであり、民間資本にそのような重要事業を任せたくはないというのが官営に拘った一番の理由かもしれません。

 釜石製鉄所を含む民間製鉄所は、銑鉄を製造するのみであって鋼材を製造するまでに至っていませんでした。それに、陸海軍自身による鋼材製造権を別の所に移そうとしても、その先が民間会社では心もとなかったのでしょう。そして釜石製鉄所を民営ですることを言い出した大蔵大臣松方正義は野呂の提案に反応し、政府部内で官営製鉄所建設論の中心人物となりました。松方にしても、大隈にしても、この頃の幹部官僚は、よく言えば考えを柔軟に変えました。そして厳しく言えば、産業体制をどうつくればいいのかということについて、厳格な理念を持ち合わせていなかったように思えます。

 銑鋼一貫製鉄所を官営でつくれという意見は主流ではありましたが、民営の方がいいと考える人達がいなかったわけではありません。1893年には、農商務大臣後藤象二郎の提唱により、民営製鉄所案が閣議決定されています。元土佐藩士の後藤が民営論者であったのか、或いは単に元薩摩藩士に対抗して工部省の後継である農商務省の存在を誇示したかったのか、そのことも伝えられてはいないのでわかりません。しかし、三井も、あるいは後藤によって出世のきっかけを得た岩崎弥太郎率いる三菱もその呼びかけに応えることはなかったと伝えられています。釜石製鉄所も、その手を挙げていません。どうしてなのか? 詳しく伝えられていないので、勝手に推量する以外にありません。

 もう少し広く、深く考えてみましょう。当時の日本に関税自主権はなく、価格の低い外国産の鋼材が自由に日本市場に侵入し続けていました。軍需用鋼材のみならず、民需用鋼材も供給するとなると、事業採算を採ることがすこぶる困難になるであろうことは直ぐに見当がつきます。需要量が大きい上に急増していた鉄道レールの需要者は、1905年に鉄道国有法ができるまでは、民営鉄道の方が優勢でした。つまり、鋼材の自由市場を前提とした大規模製鉄所の経営は、決して安全なものではないのです。野呂も、規模の経済を活かして輸入鋼材に対抗すべきであると強調していましたが、しかし、当初より採算的に事業が展開できるとも説明しておらず、事業規模も小より初めて順次拡大することを提案していました。技術に明るい野呂も、事業論となると若干精彩を欠きます。


 銑鋼一貫製鉄所の建設事業を所掌する官庁は、一度は海軍省となりましたが、結局農商務省の管轄とすることに落ち着きました。そして、その農商務省官僚は、釜石の過ちを繰り返したのです。

八幡製鉄所
八幡製鉄所
〔画像出典: Wikipedia File:Governmental Yawata Iron & Steel Works.JPG〕

 農商務省官僚は、野呂の漸進開発の構想を上書きして一挙に大規模製鉄所の建設を外国技師に頼って炭鉱が近くにある北九州の八幡で開始しました。そして、高任の長男である高島道太郎を技術トップの技監にそえました。道太郎は官営製鉄所の効率を確保するために稼働率を高めることが重要であると考え、海軍に民需用の厚板鋼板の製造を要請しました。しかし、海軍は月に数日しか稼働しない高炉を専ら自家用に使うことに拘り、それを拒否してしまいました。結局、八幡製鐵所と呉海軍工廠の両方が稼働率の低いままに同じ鋼板をつくるということになりました。当然、コストは高くなります。このようなことも予期して、民間事業者は誰も手だししなかったのでしょうか?

 この間に目につくのは軍官僚、商務省官僚の閉鎖的な縦割り・縄張り意識ですが、それに専門技術知識を欠く農商務省官僚の根拠のない自己主張が相まって、官営八幡製鉄所は大きな困難に落とし込まれることなります。1901年に開業したものの、計画を半分しか達成できず製鉄作業は停止されます。そして、結局は野呂の救援を仰ぐこととなりました。官営釜石製鉄所の失敗が、まるでそのまま繰り返されたわけです。ただ、八幡製鉄所は民営釜石製鉄所(田中製鉄所)が養った有能な技師を吸収したのですが、これ以降、農商務省官僚が経営権を手放すことはありませんでした。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
©一部転載の時は、「『小塩丙九郎の歴史・経済データバンク』より転載」と記載ください。



end of the page