小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

13. 近代資本主義から遠ざかった明治・昭和


〔1〕民業の官営化が進んだ

(3) 製鉄産業は近代資本主義から遠ざかった

 開業して9年後の1910年には、官営八幡製鉄所の経営は黒字になったと報告されています。技術開発により生産コストが下がったためと説明されていますが(飯田賢一著『鉄の100年 八幡製鉄所』〈1988年〉より)、これには1905年にすべての幹線鉄道が国有化されたことなどが影響していると思われます。製鉄所の技術開発によるコスト低減努力不断になされていましたが、しかし、その効果は限られていたと推察します。なぜなら、1920年代前半まで、日本の鋼材の輸入依存率は6割という高率であり続けたからです(下のグラフを参照ください)。


製鉄量と輸入割合
出典: 飯田賢一著『鉄の100年 八幡製鉄所』(1988年)掲載データを素に作成。
輸入割合=輸移入高/(国内供給高=国内生産高+輸移入高−輸移出高)として計算。


 戦前に、日本の鉄鋼・金属産業が実現していた技術は低いとは言えませんが、しかし高いとも言えません。日本製鐵鰍フ1000トン高炉や住友金属工業鰍フ超超ジュラルミンは世界水準に到達していました。しかし、一方、同じ日本製鐵鰍フ1943年に完成した鉄鋼一貫体制を構成する装置群は、例えば圧延工程はアメリカのメスタ社から、分塊ロール機はドイツのデマーグ社からといったように、大部分の機械が輸入したものであって独自に開発したものではありません。日本金属鰍フアルミナ工場・電解工場・電極工場の設備の多くはドイツのシーメンス社やノルウェーのエレクトトロニクス・ケミカル社、或いはアメリカのアルコア社からといった具合です。要するに、日本の鉄鋼・金属産業は、技術的には自立していなかったのです(宮崎正康・伊藤修著『戦時・戦後の産業と企業』〈岩波書店『日本経済史7―「計画化」と「民主化」』《1989年》より)。

 技術水準全体として世界水準に到達できなかったので、世界市場に対して低廉高性能の鋼板やその他金属製品を輸出する能力は、遂に持てませんでした。そして、製鉄・金属産業が日本の貿易収支の改善に貢献することはありませんでした。

 八幡製鉄所が開業して四半世紀もたった1925年の記録によれば、当時の日本の製鋼量は、アメリカの37分の1、ドイツの11分の1に過ぎません(下のグラフを参照ください)。大国ではないチェコやポーランドに比べても、さらに製鋼量は小さかったのです。そして日米両国の鋼材生産力についてのこの大差は、太平洋戦争開戦まで大きく埋まることはありませんでした(さらに下のグラフを参照ください)。陸・海・農商務省各省がそれぞれの省益を追求した結果、国益は大きく損なわれたのです。そしてこのことは、鉄の自給体制強化を大きく阻害したのですから、結局は、陸海軍の利益をも損なったことになります。


世界の製鉄量
出典: 清水憲一著『官営八幡製鐵所の創設』掲載データを素に作成。

製鉄量と輸入割合
出典:以下の2つのデータを素に作成。
1925年:出典: 清水憲一著『官営八幡製鐵所の創設』掲載データの内、銑鉄生産量。
1940年:http://www.luzinde.com/database/nation_industry.htmlに掲載の粗鋼生産量データ。原典は『USSBS米国戦略爆撃調査団報告書』(1946年)らしい(未確認)。
注意:1925年と1940年についてデータ出典許と用語が違うので厳密な年比較にはなっていない可能性がある。


 第1次世界大戦(1914−18年)時にはヨーロッパからの鋼材の輸入が途絶え、鉄がおおいに不足したために、民間製鉄所が多く建設されたのですが、何れも官営製鉄所に比べれば規模が小さく、また平時に戻ると忽ちそれらは経営難に見舞われました。そうした中、政府は、鉄の供給体制の強化を図るために、1934年に「製鉄合同」を行います。そして経営難に苦しんでいた民間製鉄企業の多くが、これをむしろ歓迎しました。反対したのは、神戸製鋼所梶A川崎造船所梶A日本鋼管鰍ネど僅かでした。この大合同により1934年に創設された日本製鐵鰍フシェアは、銑鉄については78.2パーセントに達し、粗鋼についても51.5パーセントと市場を圧しました。これは一体、経済学者たちが言うように、官営事業の民営化であるのでしょうか?

 新設された日本製鐵鰍フ株式の大半は、大蔵省が所有し、その割合が過半を割ることは一度もありませんでした(創設時に78.2パーセント、解散時に51.5パーセント〈橋本寿明著『巨大産業の交流』《岩波書店『日本経済史6 二重構造』蔵》〔1989年〕による〉)。新会社の社長には、民間人ではなく、農商務省次官を務めた元政府官僚である中井励作〈なかいれいさく〉が就きました。役員名簿を手に入れていませんが。恐らく官営八幡製鉄所出身者が民間企業出身者を圧したことでしょう。


 さらに、日本製鐵が発足した後、政府の長期需要予測に従い日鉄を中心とした大型銑鋼一貫体制を推進し、鋼材の配分を日鉄優先とし、民間製鉄所の高炉建設を抑制させるなど民間製鉄所を圧迫しました。その一方で、日鉄をカルテルの中心に据えた価格上昇抑制を製鉄業界に指示しています。そして1930年代後半には、鋼材は、専ら軍需品と貨物船を生産するのに使われ、民間産業用に配分される割合は、1937年には4分の3(76パーセント)であったものが、その後急激に縮小して、太平洋戦争開戦の年(1941年)には5割を切っています(宮崎正康・伊藤修著『戦時・戦後の産業と企業』〈岩波書店『日本経済史7 「計画化」と「民主化」』《1989年》蔵〉より)。

 このように、新会社の活動内容も、民間企業のそれとはまるで言い難いものです。つまり、形式上は、官営会社が民営化されているのですが、その実情はと言えば、官営八幡製鉄所が多くの民営製鉄所を飲み込んで、大きく膨れ上がったのです。そして、特に問題であるのは、官営製鉄所に民間企業のものが吸収されるということについて、既に挙げた一部の企業を除く多くの企業経営者も望んだということです。

 これらの人々は、経営困難な状況にある自分たちの製鉄会社が、官営製鉄所に吸収されることによって救済されるということを強く望んだのであり、自分たちで自由な競争市場を守るという近代資本主義者としての矜持〈きょうじ〉をまるで持ちあわせていませんでした(近代資本主義とは一体何であるのかについては、この章で詳しく説明しています)。市場の大きな部分を官営企業が占めるという近代資本主義国家では異常な事態と、自由な市場経済体制の構築を強く望むことはない企業経営者群は、日本を近代資本主義社会に向かった道から遠ざけました。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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