小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

13. 近代資本主義から遠ざかった明治・昭和


〔1〕民業の官営化が進んだ

(4) 官僚と世論は鉄道の官営化を望んだ

 1987年に日本国有鉄道は、電電公社の分割民営化と並んで、中曽根(康弘)内閣の行政改革の目玉の一つとして、6つの地域別の旅客会社と1つの貨物会社に分割民営化されました。このことを知る日本人は多いと思うのですが、それより80年以上も遡〈さかのぼ〉る1906年に多くの民営鉄道が官営化されたということを知る日本人は一体どれほど多くいるでしょうか? 

 20世紀初頭の民営鉄道の総延長距離はおよそ4,500キロであり、それは官営鉄道の延長距離およそ3,500キロを大きく上回っていました。その頃の民営鉄道は、最も大規模な民間企業群であり、20世紀初頭の民営鉄道の合計払込資本総額は、すべての会社の総合計払込資本総額の4分の1に達していました(1904年:23.2パーセント)。その民間産業が一挙に国営化されたのです。日本の近代産業史上、誠に重大な事件であったと言っていいと思います。

 当然のこと、当時の日本では、政界のみならず一般国民をも巻き込んだ大議論になりました。しかし現在一般に普及している経済史の書物の中で、この大事件については、「1905年に鉄道が国有化された」という類の1行が記されているのみで、その詳細について論じているものは1冊もありません。そしてそれらの本は例外なく、明治維新以降、日本の資本主義経済体制が発展したと淡々と記述しています。まことに不思議なことに、現代の日本の経済学者たちは、この近代資本主義経済体制を否定することに大きく貢献することとなった大事件について、まるで興味を持っていないのです。今の日本の経済学は、過去の多くを忘れることによってしか成立してはいないということです。

 日本最初の鉄道が1872年(新暦)に新橋・横浜間に官営鉄道として開業したことは、よく知られています。イギリスの技術により敷設された鉄道は、ニュージーランドに設けられたものと同様に、地形が急峻で曲率が小さくする必要がある国ではこれでいいというイギリス技師の判断により狭軌(1,067ミリメートル;標準軌は1,435ミリメートル)とされました。この判断を受け容れたことについては、多くの日本人が悔しがり、その後度々議論を呼ぶことになります。そしてその無念はおよそ1世紀後の1964年の東海道新幹線の開業によってようやく晴らされることとなりました。


最初の鉄道
開業当初の鉄道(全線の1割は海上に設けられた)
〔画像出典:Wikipedia File:First steam train leaving Yokohama.jpg 〕

 政府は、この時以降全国に官営鉄道を拡大していくつもりであり、東海道線など幹線鉄道の建設を進め始めました。しかし、政府の勢いは突然弱まりました。西南戦争(1877年)に多額を要して、計画通りに鉄道を敷設する予算を組めなくなってしまったのです。


最初の鉄道
開業当初の日本鉄道上野駅(遠くは、筑波山と思われる)
〔画像出典:Wikipedia File:View of Ueno-Nakasendo railway from Ueno station.jpg 〕

 新事業を求めていた民間資本は、ここにチャンスを見ました。鉄道官僚(農商務省と工部省から独立して1885年に発足した逓信省〈ていしんしょう〉に所属)と呼ばれる人たちは、猛烈な反対を主張しましたが、政府財政にゆとりがない限り、その抵抗は無益なものでした。最初に日本鉄道が設立され(1881年)、東京と新潟及び青森を結ぶ路線を敷設する許可を得て、上野駅をターミナルに北上を始めました。それを追うように、山陽鉄道(神戸−下関間)、関西鉄道(大坂湊町−名古屋間)、北海道炭鉱鉄道(小樽手宮−三笠幌内間等)、九州鉄道(門司−八代間等)などが次々に建設、開業されていきました。


 時代の雰囲気を大きく変えたのは、ここでもやはり日清戦争(1894−95年)であり、さらには日露戦争(1904−05年)でした。国の幹線鉄道を一括整備・管理すべきであるという国論が高まり、鉄道国有化論の勢いが急速に増しました。第一に鉄道国有化論を主張したのは、井上勝(まさる:長州藩士の息子)を筆頭とする逓信省の鉄道官僚たちでした。勿論、一旦押し込められた鉄道官営主義を復活して、その権限を絶対のものとしたかったのです。

 陸軍は当初、意外なことに鉄道国有化についてはそれほど積極的ではありませんでした。そのことよりも、輸送力が限られる狭軌を標準軌に拡大することを第一に考えたのです。しかし、陸軍大学を出て兵站部参謀となった大沢界雄〈かいゆう〉が、狭軌のままでも技術改良により大規模輸送が可能だということを明らかにし、鉄道国有化論を強硬に説くに至って、陸軍の意見は翻りました。

 財閥企業は、少し複雑な動きをしました。当社、民営事業の拡大を望んで、鉄道民営論を唱えました。しかし日清戦争に勝ち、さらに日露戦争後に大陸に利権を得た後貿易業を第一する三井は、本国から朝鮮半島から中国大陸に至るまでの一貫した低運賃の輸送路を確保することを重大と考え、鉄道国有論に転じました。一方、日本鉄道を初めとする鉄道業に大きく関わっており、その上九州での炭鉱業を運営する上での九州鉄道を大事と考える三菱は、鉄道国有論に強く反発しました。

 特に見苦しいのは、中小会社群です。彼らは、鉄道国有論に積極的に加担しました。しかし彼らの興味は鉄道の経営体制のあり様にはありませんでした。民営鉄道を国有化する過程で、政府資本が市場に供給され、それが不況期に軟化した株式相場を引き上げ、或いは地価が上昇して、景気上昇効果を持つことを期待しました。言ってみれば、現代の不況期にあって、民間企業群が公共事業の大盤振る舞いを要求するのと同じです。現代経済学者は、ケインズ経済効果を狙う懸命な策だと評するのかもしれませんが、国の産業構造のありよううを考えるより、目前の現金を欲しがるという短期の自己利益追求の姿勢に他なりませ。しかし、そのような個益を追う要求が、世論を動かす大きな力を持つことは、昔も今も変わりません。


 鉄道官僚、軍官僚、財閥の一部、多くの一般会社経営者、多くの国民、そして会社利益と結び付いた多くの政治家が、鉄道国有化を求めました。大蔵大臣松方正義までもが、鉄道事業の不採算を押してでも国有化すべきだと論じました。そして日露戦争での日本の勝利と権益の大陸への拡大が、その議論の行方を決定づけました。

 1906年、幾多の経路の末、1880年代に始まった鉄道国有化論は、鉄道国有法の制定によって遂にその決着を見ました。鉄道の買収総額は4億5,620万円に上り、それを一挙に負担はできないので鉄道買収公債が発行されました。この金額は、当時の市場資本の4分の1に相当するということは既に述べた通りですが、1907年の工・鉱・運輸業の資本総額(6億2200万円)だけを対象に考えれば、その73パーセントにも相当します。この巨大な民間資本が、一斉に市場から取り去られたのです。これは、民間産業規模が瞬間的にはそれほどの割合で収縮するということを意味します。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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