小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

13. 近代資本主義から遠ざかった明治・昭和


〔1〕民業の官営化が進んだ

(5) 日本資本主義の父の意見が変わった

 鉄道国有化とは、市場から4分の1の資本を取り去ってしまう、自由資本市場にとって、これ程以上の大事件はないでしょう。このことが、日本の産業構造を大きく変革することになるということに気づいていた者は、当時にもいました。「日本資本主義の父」と今でも称される渋沢栄一(1840-1931年)です。


最初の鉄道
大蔵省時代の渋沢栄一
〔画像出典:Wikipedia File:Eiichi Shibusawa young.jpg〕

 渋沢は、武蔵国の藍〈あい;染料〉の製造販売と養蚕を行う豪農の長男として生まれましたが、江戸に出て勤王志士と出会い、倒幕の志をもち京に上がるのですがその時宜を得ず、一転して一橋慶喜に仕えることなり、慶喜が将軍になるとともに幕臣となります。そしてパリ万博に出席しつつパリに2年留まるのですが維新後に帰国し、起業しようと静岡で商法会社を設立した時に知り合いとなった大蔵重信に誘われて大蔵省に入ります。しかし、その後大久保利通や大隈と意見を違えて野に下るという、まことに振れ幅の広い人生を送っています。(島田昌和著『渋沢栄一 社会企業化の先駆者』〈2011年〉より)。

 渋沢が大久保や大隈と接していた時期、2人は、イギリスの経済体制が日本のモデルだと考えていました。つまり、近代資本主義に倣おうと考えたわけです。そして、その考えに渋沢が共鳴したのか、あるいは説得されたのか、何れかはわかりませんが同じ考えをもちました。当時の日本で、この3人は最も開明的な経済論者であったと言っていいでしょう。

 渋沢は、大蔵省で大蔵少輔(副大臣)事務取扱という高い位置にある時、民間企業者の啓蒙書として大蔵省から『会社弁』及び『立会略促』(何れも1871年刊)を出版していますが、その中で、「通商の道は政府の威権を持って推〈お〉し付け、又は法制を以て縛るへからす。されは苟〈かりそめ〉にも役人たるもの商業にたつさはれは、必ず推〈お〉し付け、又は縛る等の弊を生するものなり。是政府商業をなすへからさる所以なり」と明快に政府の民間産業への介入を戒めています(西川俊作、阿部武司共著『概説』〈岩波書店『日本経済史4 産業化の時代 上』《1990年》蔵〉より)。


 当初、渋沢は官営鉄道民営化論の立場にありました。民間企業の振興を通して経済発展を図るべきという、開明的な渋沢の見解として自然なことです。そして自身、多くの民営鉄道の創設にかかわり、大株主ともなっています。しかし、日露戦争後の鉄道国有論の高まりにおいて、渋沢は、むしろ積極的にその必要性を主張しています。そして、商業会議所での演説等において、私にとっては意外な、主張を展開しているのです。次の項で、その様子を紹介します。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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