小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

13. 近代資本主義から遠ざかった明治・昭和


〔1〕民業の官営化が進んだ

(6) 渋沢の近代資本主義否定講演

 長くなりますが、渋沢が鉄道国有論を擁護するために商業会議所で行った発言の一部を小塩丙九郎の意訳で紹介したいと思います。原文を参照したいと思われれば、中西健一著『日本鉄道史研究 増補版』(1979年)を参照してください。

 「営利会社(鉄道会社のこと:小塩丙九郎註)が至る所に割拠して、勝手に活動し、私利を求めて汲々とし、ただ役に立たないことに励み、暇を持て余して公益を顧みることがない。自分たちのする仕事といえば、スピードは遅く、貨物は渋滞し、接続時間は調整されていないし、貨車や機関車の数はバラバラで、各社の利害の反することが多く、その競争のあおりで旅客が被る不便と損害は大きくて我慢できないものがある。各社間の連絡事務は煩雑で、多額を浪費するのは勿論のことである。工事は十分でなく、機械は不良で、組合ストも小さな会社が分立していることの弊害であるというしかない」

 「現代の鉄道会社は多数の小組織よりなり、相互の連絡を欠き、統一を失い、運輸の便利は少なく、運賃は安くない。だから、発展すべき産業はその恩恵を得ることができず、例を挙げれば生糸や石炭である(何れも、重要輸出品;小塩丙九郎註)。(中略)中には運賃を安くして商工業者の便を図る会社も1、2あるが、それはほんの一部であり、大体は運賃を高くしている。政府自ら進んで経営することとして、国有するなどの方法によって(全国の鉄道を;小塩丙九郎註)統一整理して、一丸とした組織にして、以て交通機関としての任務を発揮して、運輸の便の増進と運賃の低減を断行すべきである。また、満韓鉄道を合わせて首尾一貫としたものとすべきでもある」(以上は、小塩丙九郎の現代文訳)

 私設鉄道会社の経営実態を、批判し尽しています。しかし、私は、この見解に馴染めません。国有化前の私設山陽鉄道は、1888年に兵庫−明石間の建設に取り掛かり、その13年後の1901年には下関まで開通させています。長距離急行列車(1899年)の走行、ボーイの添乗(1898年)、食堂車の連結(1899年)、寝台車の導入(1900年)、特急列車の基となる「最急行」の運行、これらは何れも官営鉄道に先駆けて山陽鉄道が実現したものです。山陽鉄道と官営東海道線の両方が乗り入れる神戸駅では、山陽鉄道のスピード重視の走行は目立ったといいます。山陽鉄道は、並んで瀬戸内海を走る汽船との競争に打ち勝つ必要があったのです。或いは、大阪−名古屋間を結んだ私設関西鉄道は、官営の東海道線と激烈なスピード・料金競争を行っていました。


最初の鉄道
関西鉄道時代の柘植駅
〔画像出典:Wikipedia File:Tsuge Station in Meiji era.jpg 〕

 国有化後の全国幹線鉄道網は、強化された輸送量と距離逓減式(輸送距離が長くなるほど運賃料率が安くなる)の運賃制度を採用したことにより長距離輸送については、従来より安い運賃を提供しました。この意味では、鉄道国有論者の主張していた鉄道国有の効果が現れたということになります。しかしながら、民営鉄道を買収するために発行された日清政争で日本が得た賠償金額(3億6000万円)を大幅に上回る厖大な額(4億5620万円)の公債の償還は計画通りにはいかず、当初独立(採算)会計であるとされていたものが、結局は一般会計から補給金を得ることになりました(老川慶喜著『鉄道』〈1996年〉より)。


 つまり、運賃が安くなったとはいえ、それは税金が鉄道会計に投入されたからであって、鉄道国有化以前には輸送コストを専ら利用者が負担していたものが、鉄道国有化後には一部全国民負担となったということです。そして、当時の政府の歳入の多くが農地税に負っていたということは、鉄道事業コストの一部が、旅行者や貨物輸送発注企業から農民に付け替えられたということになります。競争を失くした鉄道事業が、効率的に発展できるわけはないのです。

 以上は、私設鉄道が官営鉄道より、機能や運賃で劣るということではなく、むしろ事実はその逆であり、複数の鉄道事業者間で競争させることこそが運賃低減の最良の手段であるということを示しています。鉄道官僚は、鉄道会社間の競争を嫌って、関西鉄道以外には、競合路線の敷設を認可していません。地域独占官営鉄道の運賃が下がるはずはないのです。

 そもそも渋沢は、日本鉄道や北海道炭鉱鉄道を初め、22の様々な規模の鉄道会社の設立に関っており(島田昌和の分析による)、当時の「業界人」として八面六臂〈はちめんろっぴ〉の活躍をしているのであり、また、北海道炭鉱鉄道や筑豊鉄道などの大株主でもありました。いわば、自分の産みの子の育ちを大批判しているということになり、渋沢の主張は素直には聞けません。つまり、渋沢の主張は事実分析の積み上げの上にあるものでなく、結論から遡〈さかのぼ〉って事実の描写を創り上げたものである、というのが小塩丙九郎の解釈するところです。そして、渋沢の発言の極めつけは、次です。

 「今日の日本の状態は、決して英国を模範とすべき時期ではなかろうと思う。現政府が、鉄道政策を立案するに当たって、輸出入を盛んにして国力を増進する必要があるという立場から、鉄道国有を主張するのはやむええないことであり、自分も最初は反対した政策であるけれども、今日の場合は同意せざるを得ないかと思う」 つまり渋沢は、イギリスの自由市場経済モデル、つまり近代資本主義、は、日本にはもはや馴染まないと断じているのです。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
©一部転載の時は、「『小塩丙九郎の歴史・経済データバンク』より転載」と記載ください。



end of the page