小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

16. 東大法学部と政府官僚


この章のポイント
  1. 幕府官僚(江戸時代)→軍官僚(明治から昭和前期)→大蔵・財務省官僚(昭和後期→現在)まで4世紀にわたって官僚による市場管理が続いているが、その何れもが大経済破綻に至り、或いは至らせつつある。

  2. 官僚は社会の変化を嫌い、世界環境が変化する中で取り残されることを厭わない。国益より派閥益が優先する。官僚がつくる社会は、サステナブル(持続可能)なものではない。

  3. 昭和維新後と太平洋戦争敗戦後のそれぞれ短い期間、政治家の力が官僚の力を優越することがあり、骨太の政策展開が行われたこともあったが、それ以外の期間には社会構造変革を行う動きは絶えてなかった。

  4. 官僚とマルクス経済学の流れをくむ経済学者の連携による市場管理が続く限り、日本の経済・社会は発展しない。

  5. “竹中-小泉改革”と呼ばれるものは、実体をもつ改革ではなかった。


〔1〕戦前の官僚たち

(1) 日本の近代官僚と東大の始まり

 近代明治の最初の政府官僚は、徴士〈ちょうし〉と呼ばれました。それらは主に明治維新戦争に勝利した雄藩から急いで徴収された者たちでした。その者たちの給与は明治政府から支払われました。しかし、急速に規模が拡大した明治政府ではそれでは手が足りなくなり、政府は諸藩から武士を政府官僚として差し出すように命じました。諸藩は、明治政府の様子を知り、或いは新政権の中での発言権をできるだけ得ようとして、競って有能な者を貢〈みつ〉ぎ出しました。

 大内戦を戦い終わった直後の政府の財政は貧窮を極めており、政府は諸藩にそれらの者を弁当持ちで、つまり給与は諸藩もちで、派遣するように命じました。そのため、これらの官僚は「貢士〈こうし〉」と呼ばれました。貢士たちは優秀ではあったのですが、諸藩への忠誠心が強く、徴士のように革新の意気に燃えていないために保守的で、結局は使い物にはなりませんでした。

 新政府ができたから3年経った1971年、新政府はそれまでの藩を廃し、県を置きます。これで、藩から人材を得る道は途絶えました。各省は、それぞれのニーズに応じて個別に官僚の養成機関をつくり始めていましたが、その不十分さを悟った政府は、1886年に帝国大学を設立します。そしてそれまで各省が設けていた教育機関の多くは、陸海軍のものを除いてここに糾合されました。それ以降、日本の政府官僚(文官)の半分以上は東大(帝国大学 → 東京帝国大学 → 東京大学と時代とともに名前は変わりました。なお、帝国大学になる以前に東京大学と呼ばれた時期があります。ここではそれらを総称して“東大”と呼びます)の卒業生であり、特に各省官僚のトップである事務次官の大半は東大法学部の卒業生であり、そしてそのことは今もって変わりません。

 ところで、「大学」とは一体どういう機関であるのでしょうか? 大学は、国民が政府から独立して自ら学問をする場所であるとか、或いは、哲学と科学を主として唯一無二の真理を探究する場であるとかであって、日本の大学は国際標準の大学のあり様とは違うという議論が絶えません。

 この原理に近い形態をもつのは、ドイツのベルリン大学で、国家の支配を受けない学問の自由を確保するため、研究者と学生が自由に、法学、神学から自然科学を含む幅広い学問を探求することを目的としていました。ちなみに、英語の“student”と言う言葉は、ラテン語を素とし、これは(学ぶことに)熱意を持った者と言う意味で、本来先生と学生の間に上下関係はないと言います。けれど、これはヨーロッパの多くの国々やアメリカでも等しくそうであったかと言うとそうでもありません。

 日本と同様に、今でも中央集権的な国家体制を採るフランスの大学の起源は、1806年にナポレオン・ボナパルトが、国家が直接国民の教育に当たることを目的に創設した帝国大学(L'Universite Imperiale)で、これは日本の帝国大学に近いものです。ですから、日本の帝国大学や東大の起源が、日本固有のものであるというところから議論を始めることは、そう適当とは思われませんので、歴史・経済データバンクでもその議論は避けることとします。

 とにかく、帝国大学(後の東京帝国大学、そして東京大学)は、そのように政府官僚を育てることを第一の目的として設立されました。そして、勿論、そればかりでなく、工学を含む様々な学問領域についても併せて学部が創設されたのですが、その目的は学問の探求というより専門家の養成ということに重きが置かれていました。それは、帝国大学が、各省が自発的に設けていた専門家養成機関(例えば東京法学校や工部大学校)や医学校を糾合して創られたからです(他に、幕府が興した官僚養成機関である蕃書調所〈ばんしょしらべしょ〉、後の開成学校も含められました)。

東京帝国大学法科大学校舎 (1902年)
〔画像出典:Wikipedia File:University of Tokyo. Faculty of law. Before 1902.jpg 〕

 しかし、帝国大学の基本がやはり政府官僚の養成にあることは、トップの総長は法科大学長を兼ねるとされたことからも分かります。ちなみに、「総長」とは、旧帝国大学のトップにのみ許された特権的な名称です。そして設立当初、今の学部は単科大学とされ、その長は「大学長」と呼ばれました。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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