小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

16. 東大法学部と政府官僚


〔1〕戦前の官僚たち

(2) 東大の気風が定まった

 そして、この帝国大学設立の趣旨と雰囲気は、今の東大法学部にも受け継がれています。東大のあり様をもっとも痛烈に批判したのは、ジャーナリストの立花隆(東大文学部卒)でしょう。彼の著す東大の特性は2つあります。1つは、学問の内容が実学であって、哲学の様な真理探究の要素をほとんど持っていないということです。そしてもう1つは、教授たちが自分の思想を学生に教え込むことに熱心で反駁〈はんばく〉を許さず、一方学生たちもが従順であるという点です。つまり、東大はベルリン大学の対極にある、というわけです。

 その象徴的な出来事として、立花は、自身が東大経済学部で教えたときに、学期末に「何でも論じたいことを自由に論じよ」という課題を出したら、ほとんどの学生は、彼が授業中に話したことをそのまま書いてきたというのですが、この傾向は法学部でも変わらないと言います(立花隆著『東大生はバカになったか』〈2001年〉による)。

 このことは、殊に重要な指摘である、と小塩丙九郎は考えています。1つには、学生が教授に反駁できないとは、既存の理論を破る革新的な主張を行う訓練が日頃よりされないということです。ですから、このことと、東大からノーベル(科学)賞受賞者がわずかしか出ない(下のグラフを参照ください)、他の大学に勝る多額の研究費を国から得ながら(さらに下のグラフを参照ください)研究機関としてそれに見合うだけの大きさの成果を挙げていないということには、おおいに関わりがある、と小塩丙九郎は考えています。そして、官庁にあっては、先輩のつくった政策体系や個別の政策を後輩が改革することを憚〈はばから〉らせるような空気が醸成されるということです。これは政策が不変であることを意味し、その分社会の安定性は保てるのですが、世界の環境が変わった時には、日本だけが世界から取り残されるということになります。

ノーベル賞受賞者
説明:(1)後にアメリカ国籍を得た2人も含まれる。(2)東京帝大、京都帝大はそれぞれ京大、東大に含まれる。
出典:小塩丙九郎作成。


東大の予算シェア
説明:予算額は、2004年度から2013年度の合計額
出典:2013年 財政制度等審議会財政制度分科会資料


 実学を重んじるということが、必ずしも西洋の大学の伝統に反するものではないということは既に述べましたが、しかし、それでも、哲学や社会構成の理念を大事に考えないという点は重要です。それは権威を重んじる大学の教育方法と相俟って、既存の体系のあり方を疑う深遠な議論を避けるということに繋がります。これは社会改革を行う発想を否定し、逆に既存権力者による中央集権で権威的な“統治”についての考え方をつくりあげ、さらに強化することに役立ちます。

 また、科学技術の面について言えば、実学を中心として扱い、基礎科学の学習や研究を大事にしないというところでは、その時々の世界の先端を追いかけるということに役立つことはあっても、自らが世界の先端となる革新的な技術を発明したり、発見したり、或いは開発したりと言うことはすこぶる難しくなります。今風に言えば、イノベーションは実現し難くなるということです。さらにまた、東大からノーベル(科学)賞受賞者が多く出ないということのもう1つの背景になっていると思います。

 ですから、東大は、中央集権である権威的な政府を運営する官僚の養成機関であるという特徴を強くもっているのであり、それは帝国大学創立以来、現代にまで綿々と続く東大の伝統だということです。

 帝国大学創設初期には、政府官僚への採用は、省の人事責任者と大学教授の談判でおおよそ決まっていました。そして、東大法科大学の卒業生の中でも特に優秀な成績を残した者は、優先的に大蔵省に割り振られました。当時から、政府の中で予算を決定し配分する権限を持つ大蔵省が、“政府の中の政府”として最も重要だと考えられていたからです。学生の中には、教授の考えに馴染まない者もいましたが、そのような場合には、教授が半ば恫喝〈どうかつ〉するようにしてまで学生を翻意させていました。

1902年の東大法科大学
初代大蔵省庁舎
〔画像出典:Wikipedia File:Ministry of the Treasury.jpg 〕

 現在は、大蔵省に次いで東大法学部卒業生に人気の高いのは、知事への道が近い総務省(のうち旧自治省に属するもの)ですが、当時の内務省(自治省の前身)は出世して知事に上がる以外に警察畑に配属される可能性があったので、必ずしも好まれず、経済産業省の前身である商工省は、まだ小規模で、官高民低の観念のもとで二流官庁とされていました(清水唯一朗著『近代日本の官僚−維新官僚から学歴エリートへ−』〈2013年〉による)。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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