小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

16. 東大法学部と政府官僚


〔1〕戦前の官僚たち

(3) 明治憲法が産んだ無敵の軍官僚

 19世紀中、つまり明治維新以来30年間ほど、東大卒の官僚がまだ若かった時は、維新の元勲たちが残っており、その意向で政府の方針は差配され、政府官僚もそれに従っていました。しかし、20世紀に入り元勲がいなくなり、或いは高齢となって力を弱めた後には、政党政治の時代がやってきます。この頃、政府官僚の統括的な行動がなくなります。1つには、元勲がいなくなり頭の重しが取れると、官僚たちは国益より省益を優先させ始め、もう1つには、政党が自己の主張を実現するために官僚個人との結びつきを深めたために、各省の人事が分裂して、省を統合して支配する力が弱まったのです。

 今でも自治体によっては、議員が職員の人事に深く関わり、それが公正であるべき統治機構の姿を歪めている例がよく見られますが、当時の政府官僚組織にその気配が芽生えました。日本の政党政治は、2大政党(政友会と民政党)による民意の執行と言う理想から離れ、公共事業の配分権を手段として利権政治に走りました。当初は、民権政治を求める国民からの大きな期待を担った政党でしたが、その期待は直ぐに裏切られました。そして、国民の支持を得ない政党に、有能な官僚たちを支配する力はやがてなくなります。

 20世紀に入り、明治の元勲の重しが取れ、国民の政党への信頼がなくなり、そして苛烈な労務を国民に強要する一方で利潤を独占する民間資本に対する反感が露わになったことに対して、官僚たちが反応しました。その1つは軍官僚です。小塩丙九郎は、いわゆる文官だけでなく陸海軍の幹部武官をも官僚として扱っています。新人の採用及びその後の人事の方法、或いは派閥間の強い競争意識、さらには省益や派閥益を公共益や国益に優先させる癖〈へき〉があることなど、その組織構造と行動様式に変わるところがないからです。その具体の例は、この歴史・経済データバンクの諸所に、その都度指摘しています。

 国の軍備のあり方を定めるのが「帝国国防方針」ですが、これは、陸海軍が大蔵省に予め了解を得ることなく、直接天皇に上奏することができるとされていました。しかし、その根拠はと問われると、そこから少しややこしくなります。大日本帝国憲法第11条の定めにより、軍の統帥権〈とうすいけん〉は天皇独りに存し、天皇が統帥を行うについて上奏〈じょうそう〉できる権利を帷幄〈いあく〉上奏権というのですが、それは軍を直接指揮する陸軍参謀総長と海軍軍令部総長が持っています。しかし、特に陸軍はこれを拡大解釈したのです。

 帷幄とは、戦場に張る軍用テントのことであり、帷幄上奏という言葉は、本来軍の行動指揮についての参謀総長らの意見具申のことを意味しています。現地部隊を緊急に動かすについては、軍の指揮命令ラインをできるだけ簡素にしておかないと対処できないという考えです。これを第1に陸海軍大臣だけで上奏できるようにし(1989年、「内閣官制」)、第2に、陸海軍の軍備の内容はその方針についてまで適用されるとしました。

 第2の点について拡大解釈したとは、次のことです。憲法第11条では天皇の統帥権に触れているのに対して、憲法第12条は、天皇の軍の編成と軍備の量についての決定権を定めているのですが、それには内閣の輔弼(ほひつ:署名のこと)を要すとされています。軍備をどう定めるかという国防方針は、本来、この第12条に基づくものであって、第11条にいう統帥とは関わりのないことであるはずなのに、それを軍の統帥権に属するものと解釈したのです。憲法を素直に読めば、そう解釈することは難しいのですが、陸軍は、巧妙なレトリックを駆使して、天皇を含め、多くの者にそのような主張を認めさせました。

 憲法を時の権力が自己都合のいいように“解釈する”という日本独特の憲法観は、この時にその源を発します。憲法案を検討する段階では、第11条と第12条が1本になっていた時もあり、そもそも、この2つの大権を区分しないという考えもあったのですが、しかし一方、予算策定権と軍の指揮権を区分しておいた方がいいという外人アドバイザーの意見もあり、結局は2つの条に区分されたらしいのです(秦邦彦著『統帥権と陸海軍の時代』〈2006年〉より)。その辺りの議論を、陸軍は蒸し返して、力を誇示しつつ乗り越えたということでしょう。

山県有朋と伊藤博文
山県有朋(左)と伊藤博文(右)
〔画像出典:Wikipedia File:Yamagata Aritomo.jpg(山県有朋)、File:It? Hirobumi.jpg (伊藤博文)〕

 これに到るまでは、文官を統率する伊藤博文と武官を統率する山県有朋〈やまがたありとも〉との間の激論があったのですが、その時も山県が伊藤を制しているようです。このような経緯を見ていたであろう陸海軍大臣以外の首相を含む大臣や、大蔵省官僚たちを含む文官は、陸海軍の強引さに身を捨ててでも刃向うという覚悟はありませんでした。憲法に反して統帥権を独立させるというのは、日本だけが例外であるというわけではありません。ドイツ(プロシャ)でも有名なモルトケ(ヘルムート・モルトケ参謀総長)の時代にそうなったのですが、ドイツではそうなるまでに60年を要している(昭和時代の法制学者藤田嗣雄の所見;秦邦彦著『統帥権と帝国陸海軍の時代』〈2006年〉より)のに、日本ではアッというほどの短い間にそうなってしまいました。日本人の法治についての観念が、ドイツ人よりそれほど薄いということでしょう。

  • 山県有朋(軍官僚代表)と伊藤博文(文官代表)との対決は、山県に軍配が上がった。

  • これで軍官僚の文官に対する優越が定着したと考えていいだろう。

 総理やその他大臣が、この陸海軍への強い態度を貫けなかったのには、1つ大きな制度上の制約があったということがあります。1885年に内閣制度ができたとき、陸海軍大臣は陸軍軍人、或いは海軍軍人でないと就けないと定められました。そして同時に、総理大臣に他の国務大臣を罷免する権限がないことも定められました。陸海軍大臣が1つの主張を行い、総理や他の内閣メンバーがこれを認めないといっても、陸海軍大臣を辞めさせることはできず、或いは、何とかして辞めさせることができたとしても次期大臣についての陸海軍の推挙を得られない以上、次の内閣を構成できません。つまり、陸海軍大臣と意見を異にした内閣は、総辞職する以外にないのです。

 そして、この制度の恐ろしさを、内閣は1912年に初めて実体験します。第2次西園寺公望〈さいおんじきんもち〉内閣が、陸軍の師団増要求を拒否すると、上原勇作陸軍大臣が師団増設案を天皇へ帷幄上奏することを強行し、独り辞職します。そうして陸軍大臣を失った内閣は、総辞職に追い込まれたのです。このとき以降、陸海軍大臣の内閣での発言に歯止めがかからなくなりました。

 陸海軍大臣は、陸海軍官僚の代表です。その予算要求を大蔵大臣が拒否することは、制度上可能です。しかし、陸海軍大臣以外の大臣は、予算要求の根拠である「帝国国防方針」には手を触れることはできません。そして、陸海軍大臣が、「帝国国防方針を全うするために、この予算は必要である」と執拗〈しつよう〉に要求し続ければ、それに反する大蔵省官僚の反論は、天皇の統帥権を干犯〈かんぱん〉する(この激しい言葉は、後に少し触れる北一輝〈きたいっき〉〈北の思想についてはここ〉の造語とされていますが、実際には海軍内で造られた言葉を北が広めたらしいと思われます)意思を表すものであると受け取るというのが陸海軍官僚の主張であり、さらにその背後に内閣崩壊の脅しがあります。大蔵省官僚は、前後両面から軍官僚に強く圧迫されているのです。そして、この圧迫に抗する活動は、大蔵省官僚を初めとする文官たちの間には起きませんでした。

 もう一つ、大蔵官僚の予算策定権限による軍の行動抑制が働かない制度があります。それは、戦時になると、軍事費は、主に一般会計ではなく特別会計で賄われます。一般会計は、国の会計の単年度主義により1年度限りの事業費を予め定めるものであり、実際にその年度に計上された額全額を執行できなければ、残った金額を自動的に翌年度に繰り越すことはできません。しかし、一旦特別会計に計上された予算は、複数年度にわたって配分する権限を各省、つまりこの場合は陸海軍、が持つことになります。実際、日露戦争では、戦時経費のほとんどが特別会計で予算化されましたし、1937年にはじまった日中戦争以来特別会計が組まれ、そして太平洋戦争が始まって後は、ほぼ全額が特別会計に移されています(下のグラフを参照ください)。

太平洋戦争までの軍事予算
説明:歳出総額と一般会計軍事費との差は、特別会計軍事費。
出典:山田朗『軍備拡張の近代史』(1997年)掲載データを素に作成。

 日露戦争時(1904-05年)に特別会計とすることを決めた際に、支出が放漫にならないように、陸海軍大臣が総理大臣の同意を得てから大蔵大臣に予算支出要求し、勅裁〈ちょくさい;天皇の採決〉を経て支出されると言う約束が交わされたのですが、戦局の急なることを告げられた大蔵大臣に一体どれだけの抗弁が出来るものでしょうか? さらにもう一つ付け加えれば、陸軍は進駐先で軍票を発行して、その流通を強要することにより、根拠のない第2の通貨の発行権を得ることができます(勿論それは、現地でのインフレと経済混乱を招くことになるのですが、、、)。それは、日本本土の大蔵省官僚のまったく与り知らぬところとなります。国の軍事費予算を拡大し、その活用の自由度を確保し、さらに予算以外の軍事費の調達手段を持つのです。

 このような、巧みな制度の積み重ねと、反対者が強硬に居座ると暴力によってでも排除する、つまり暗殺する、という陸軍の強い態度によって、軍が望むだけの予算を獲得し、自由に執行するという軍官僚の大蔵省官僚を圧倒する優越状態が生まれました。大蔵省官僚には、これに逆らう力も、或いは覚悟もありませんでした。

 このような制度を定めた責任者は一に山県有朋〈やまがたありとも〉です。山県は、大日本帝国憲法の形を決め、内閣制度を定めました。先に触れた帝国国防方針は、山県が中心となって、イギリスとロシアが開戦した場合の軍の対処方針を検討したことから始まるとされており、これも山県がそのあり方を決めました。「これらの諸制度は、日本を軍事国家に育ててしまうのでないかとの見方もあろうが、山県には、元々、日本を軍事国家として育てると言う意識があった」と言う人もいます(例えば、半藤一利〈作家〉)。つまり、明治維新の本質は、幕府官僚から薩長閥(旧薩摩藩と旧長州藩の流れを汲む人々の構成する派閥)を基本とする軍官僚への権力の移行である、と言えます。

 明治政府の権限は、「政府の中の政府」といわれる大蔵省にも、或いは広範な分野における強権を持ったとされる内務省にもありませんでした。それらの持つ権限は、軍官僚の持つ絶大なる権限の前には、まるで色褪せてしまいます。



2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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