小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

16. 東大法学部と政府官僚


〔1〕戦前の官僚たち

(4) 無力な戦前の大蔵官僚

 既に述べたように(ここ)、1910年代には、陸海軍官僚たちの力は、すでに大蔵省官僚のそれに優越することが誰の目にも明らかになりました。そしてその後第1次世界大戦参戦(1914年)を契機に、軍事費は拡大し続け(グラフはここ)、1918年に第1次世界大戦が終結してもなお海軍はアメリカとの建艦競争に走り、軍事費の歳出に対する割合が通常の3割に復したのは、1922年のワシントン海軍軍縮条約が締結されてからです。しかし、依然として、陸海軍は軍事費拡大の機会を窺い続けました。そして、陸軍の満州への進出の拡大、さらに国際連盟脱退(1933年)により国際的孤立の道を選んだ日本の軍事費は、1930年代に入ってから急激に拡大しました。

 このようなことになった根本原因は、大日本帝国憲法の曖昧な規定にあります。天皇に統帥権と軍備決定権がある限りにおいて、そして陸海軍に帷幄上奏権が認められている限りにおいて、武力を背景とした陸海軍の拡大解釈を止めることは、原理的に難しいことでした。そして、憲法を策定した山県の頭の中には、軍事国家の養成がありましたが、しかし、そのことは憲法に書かれてはいません。

 現代でも、整理解雇(現代の経営者たちが“リストラ”と呼ぶもの)の適法性について、裁判所が立法府に優越して働いているようであったり、或いは「行政指導」と称して法律にない作用を行政組織が民間企業に及ぼしたりというように、日本では、法治ということについての観念が厳格でなく、時の勢いに任せる、つまり、強い者に弱かったり、本来自分に責任があるのであるが、面倒なことは他人に押し付けておく、といったご都合主義が諸所に見られます。日本は、「法治」国家ではなく、「官治」国家であると主張する者もいます(経済学者の池田信夫)。

 山県が元気でいる間は、国の政策と軍についての統治が分裂することもなかったのですが、山県が元気をなくして以降、生き残った元老である西園寺公望〈さいおんじきんもち〉と松方正義には共に軍歴がないため軍を制する力はなく、遺された軍の独走を許す制度が軍の横暴を招来しました。日本人の、天皇の大権の範囲についてすら明確としない明治憲法に代表される「法治」ということについての観念のいい加減さと、山県の軍事国家への希求が、結局は、近代国家としての日本の形を奇妙なものに歪めていったことになります。そのような国家としての日本の「あいまいさ」が、結局日本を滅ぼし、アジアの人々に多大な苦労をかけることになったというのが、大江健三郎のノーベル文学賞受賞記念講演(1994年:『あいまいな日本の私』、1995年同名標題の新書)の趣旨でありました。そして、このようにして、文官の軍官僚への隷属が決定づけられました。

大江健三郎
大江健三郎
〔画像出典: Wikipedia File:Paris - Salon du livre 2012 - Kenzabur? ?e - 003.jpg  著作権者 Thesupermat 〕

 「法治」ということについて、少し付け加えたいと思います。「国際法」というものがあります。まだ地球に世界政府というものがない以上、国際法をすべての国に強制遵守させる力を持った者はいません。だから、国際法を遵守するか否かは、当事国の他国との相対的力の大小によって多いに左右されることになります。大国が、国際法に従わないということはよく起こります。しかし、その場合であっても、何かと言い訳をして、世界市民に対して何らかの国際法上の正当性を無理やりにでも主張します。

 しかし、かつて、これを無視していいと大声で唱えた日本人がいました。東京帝国大学法科大学教授である戸水寛人〈とみずひろんど〉です。日露戦争における日本のロシアへの領土拡大の国際法上の正当性を論ずるに当たって、戸水は、「政治論と国際法上の議論とは自(おのずか)ら別物なり」と言い、人口の拡大する日本はシベリア全体(エニセー川以東)を占拠しても構わないのだと言い、これに同調する東京帝国大学法科大学教授たちが6人もいました(その他に東京帝大卒で学習院大学教授が1人。いわゆる“七博士”。立花隆著『天皇と東大』〈2005年〉による)。これは当時の法科大学教授の3分の1が、戸水と同じ考えを公に表したということを意味します。

戸水寛人
戸水寛人
〔画像出典: Wikipedia File:Hirondo Tomizu, Professor of Roman Law.jpg 〕

 これが、東京帝国大学法科大学の全部を代表するものでなかったことは幸いですが、その大きな部分を占めたことは確かです。東京帝国大学法科大学では、法治というもののあり方についいて、そのようにして学生を教育していたのです。この大学の本質は、「以〈もって〉て然〈しか〉るべし」と言う他ありません。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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