小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

16. 東大法学部と政府官僚


〔1〕敗戦直後はどうだったのか?

(5) 軍官僚と東京帝大法科大学学生

 東京帝国大学生の英才ぶりについては、説明の必要もないでしょうが、軍官僚たちの学業能力も同程度に高かったと言えます(詳しい説明はここ)。ただし、その難点を言えば、軍を指揮する方法を中心に学んでおり、行政学は学ばず、国際政治の大局観を持つ方法を養成されなかったこと、陸軍大学校については兵站を軽視する教育を、そして海軍大学校では民間船による輸送を警護する任務を軽視した教育を受けたたこと、さらに特に陸軍大学では、山県死後長州閥を締め出すなどの極端な派閥重視の考えがはびこったことなどがあります。そして、この派閥重視と同時に、東京帝国大学法学部と同様に、兵や国民に対する尊大な態度を養う権威主義が全体を横溢〈おういつ〉していました。

 歴史学者(東京大学文学部教授)である加藤陽子は、その著書『それでも日本人は「戦争」を選んだ』(2009年)の中で、満州事変の直前に行われた東京帝国大学生の意識調査の結果が、満蒙(満州と東モンゴル)のための武力行使の是非について88パーセントの者が「然り〈しかり、つまり、イエス〉」と肯定したことを指して、当時の国民の雰囲気を示していると説明しています。

 しかし、東京帝大生がそう答えるのは、彼らが自分でそう考えたというより、日露戦争開戦を煽〈あお〉った「七博士」の行動に代表される東京帝国大学の教育が、教授の教えに従順であると言われる学生の思想を創り出していたためと思えます。東京帝大生たちが、当時の風潮を代表しているのではなく、東京帝国大学の教授たちと学生たちが世論を創り出していた、という方が実態に近いでしょう。陸海軍大学生と東京帝国大学生は、この頃、学力が並ぶだけでなく、同じ方向をも見ていたと言えます。要するに、学力も思想も変わらないということです。

 日露戦争の勝利により満州開発についての利権(特殊権益)を得て、第1次世界大戦で遼東地方にいたドイツ軍を打ち負かしたことにより、さらに中国への進出を日本は続けたのですが、その頃、陸軍内に(薩摩閥を源とする)皇道派と(長州閥を継ぐ)統制派の2派があり激しく対立していました。しかし、1936年の2・26事件により皇道派が没落し、統制派が陸軍を牛耳〈ぎゅうじ〉ることとなります。

 皇道派は、天皇の親政に戻し、兵や国民を大事として、最も危険な敵であるソ連に対峙するため、中国との武力衝突や東南アジアへの南進は控えるべきであると主張し、一方、統制派は、官僚や財界と結んで国家統制体制を築き、大陸進出をさらに拡大し、東南アジアに南進し、そのためソ連とは中立条約を結んで軍事衝突を避けるべきであるという考えでした。統制派が陸軍を支配したということは、この大陸進出拡大路線が陸軍で定まったということを意味します。

 これを海軍について言うのであれば、これより6年遡〈さかのぼ〉る1930年のロンドン海軍軍縮条約をめぐる海軍内の争いに、艦船の建造を続け日米開戦に備えるべきと主張する艦隊派(海軍軍令部官僚)が、英米との協調を重視すべきとする条約派(海軍省官僚)を制していました。つまり、陸海軍ともどもについて、アメリカとの開戦に向かう体制がつくられていたということです。

 この頃、もう一方、文官の間に革新官僚と呼ばれる一群が生まれていました(その詳しい様子はここ)。そしてそれら革新官僚は、政党政治家ではなく官僚が国の統治を直接行うべきであるという点において軍官僚と利害を共有し、それまで以上に軍官僚との連携を強めていきました。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
©一部転載の時は、「『小塩丙九郎の歴史・経済データバンク』より転載」と記載ください。



end of the page