小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

16. 東大法学部と政府官僚


〔1〕敗戦直後はどうだったのか?

(6) 臨戦下での軍官僚と大蔵官僚

 政党政治家の影響を廃し、民間資本を国家の意思に従わせるという点において、革新官僚と陸軍統制派の意識が重なり合ったことによって、これらの勢力は、その一方が他方を一方的に押さえつけると言うほどの優位な力を持たなかった、というより、文官と武官が夫々の立場にあってその共有する利害を発揮すればそれで十分である、と当時の革新官僚たちは考えていたのではないか、と小塩丙九郎は長い間考えていました。しかし、実態は革新官僚たちの思惑を外れていたことをやがて知るようになりました。

 真珠湾攻撃からおよそ2年経った1943年11月に、軍需省がつくられました。軍需省とは、太平洋戦争の戦況が悪化するのに対応して、国家総動員法(1938年)に基づく国家統制体制をさらに貫徹するために、軍人であり陸軍大臣と内務大臣を兼ねる東条英機〈とうじょうひでき〉が組織した内閣が、商工省の大半と企画院(政府の基本政策の策定機関)を合わせてつくりあげた官庁ですが、「本省の局課長からはじまって、地方機構として設けられた軍需監理部(9か所)の部長、部員にいたるまで、現役の陸海軍軍人が配置され,文官の発言権は低かった」(戦前官僚制度研究会/秦郁彦著『戦前日本官僚制の制度・組織・人事』〈1981年〉より)という事態になったのです。

 革新官僚の頭目格であった商工省官僚出身の岸信介は、当時既に商工大臣にまでなっていたのですが、軍需省の発足に伴い、国務大臣の肩書は外されていませんが、新しい役所での地位は大臣ではなく次官とされました。これは推測ですが、恐らく、軍官僚を含む人事を商工省官僚出身者には任せられないと言うのが、第一の理由であったのでしょう。軍需大臣には、すでに総理の他2つの大臣を兼ねていた元陸軍官僚である東条自身が就きました。つまり、商工省改め軍需省は、大臣以下すべて軍官僚に飲み込まれたことになります。文官である革新官僚は、当初軍官僚によって利用され、そして時期が切迫するに従ってその足下に踏みしかれた、というのが小塩丙九郎の解釈です。

  • 商工省が軍需省に改組されたとき、それは軍官僚に丸ごと乗っ取られた。

  • これで産業界管理の権限は、完全に軍官僚の手の中に落ちた。経済官僚は、軍官僚の手下と化した。

 それでは、大蔵省官僚たちはその時どれほどの力を保っていたのでしょうか? 明治新政府ができてから、太平洋戦争敗戦まで、78回(年度)にわたって策定された国家予算のうち、軍事費の歳出総額に占める割合が、適正値の上限と思われる3分の1を下回ったのは、そのおよそ半分の37回(年度)しかなく、さらに20世紀に限ってみると、4分の1(46回〈年度〉の11回〈年度〉)しかありません(このグラフを参照ください)。つまり、戦時が日本の常態でした。

 当然のこと、国の財政は恒常的にほぼ破綻状態にあったと言っていいと思います。このような状態が強力な大蔵省官僚の指揮の下で許されたとは思えません。さらに、既に述べたように、戦時になると、単年度主義の一般会計だけでなく、年度を限らない特別会計を組むことができます。実際、日露戦争では、戦時経費のほとんどが特別会計で予算化されましたし、1937年に始まった日中戦争以来特別会計が組まれ、そして太平洋戦争が始まって後は、ほぼ全額が特別会計に移されています。一旦そうなると、大蔵省の予算執行についての監督権限は実行上ほとんどなくなってしまいます。

 国家統制体制の下で、企業は陸海軍の命令により膨大な軍需物資の製造を行いますが、急拡大した事業予算を当時まだ非力の企業自らが賄う力はなく、必要な財源は国が国民に貯金と国債購入を強いることにより獲得した資金を国策銀行(興業銀行)を通じて融通するということを、大蔵省官僚の指揮のもとで行っています(ちなみにこれは、企業の直接金融主体体制を間接金融依存体制に変えました〈明治→昭和前期の民間資本の資金のあり様については、ここに詳しく説明しています)。

 また、労働組合を解散させた後、経営者と労働者を一体とした「産業報国体制」による生産体制の実現と指導を商工省官僚が行っています。この間、自主的な企業経営の自由は奪われ、労働者は転職の自由をなくしました。つまり、日本は近代資本主義に完全に背を向け、完全な計画経済体制の下に置かれることとなったわけです。しかし、この体制を総合指揮したのは、経済官僚たるところの大蔵省官僚でもなければ、勿論1943年に軍官僚に乗っ取られることになる商工省の官僚でもありません。彼らは、軍の施策実行の配下とされたに過ぎません。

 さらに、軍官僚は、国際連盟で日本の満州侵攻についての是非に関わるリットン報告書(1932年)の採択を巡ってぎりぎりの外交交渉が行われている最中に、独断で中国熱河省に侵攻し、連盟加盟各国の日本の侵略意図についての疑惑を決定づけ(侵略戦争を起こすことは国際連盟規約違反でした)、日本の連盟脱退(1933年)を決定づけたことに象徴されるように、諸所で外交に関わる越権行為を繰り返しています。つまり、外務省官僚も軍官僚に蹴散らされています。さらに、憲兵には民間人を取り締まる権限も与えられており(1881年憲兵条例による)、警察(内務省)官僚をも圧迫していました。

 これ程までの傍若無人〈ぼうじゃくぶじん〉振りが軍官僚に許されると、山県は想像してはいなかったのかも知れませんが、特定の者のみを擁護する制度をつくれば、何れそれが独り歩きして、大なる悪をなすことができるという典型例であると言えます。日本一の秀才を誇った東京帝大法科大学(1919年より法学部に改組)卒の大蔵省官僚は、結局のところ、太平洋戦争での敗戦に到るまで、国の政策の基本方針や予算を策定することも、実行することもなかったのです。東京帝大生たちが蔑んだ陸海軍士官学校卒業生たちの跋扈〈ばっこ〉をどうすることもできず、決して勝つことのない戦争に向かう時代に、主人ではない当事者として立ち会うこととなったのです。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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