小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

16. 東大法学部と政府官僚


〔2〕戦後の官僚たち

(1) 東大法科卒の総理大臣

 皇道派の忠告を捨て中国戦線を拡大し、さらに南進した日本は、当然の帰結としてアメリカやイギリスなどと衝突し、そして、これも当然のこととして、相互不可侵条約(日ソ中立条約)を破ったソ連にも襲われ、敗戦することとなりました。日本に進駐した連合国を代表するアメリカ軍は、当初は、日本が2度と戦争を戦えないよう徹底して武装解除することに主眼を置きました。日本の経済復興については、まるで関心がありませんでした。そのため、軍を武装解除し、重大な戦争責任者を巣鴨プリズン(戦犯収容所)に送って極東軍事裁判所に訴追し、それほどでない軍人や財閥等大企業の経営者達を公職から追放(パージ)し、さらには労働組合の設立を援助することを含め民主化を進めようとします。

 しかしやがて、第2次大戦が終わるとともに始まった東西対立(冷戦)に危機感を持ったアメリカ政府は、政策を大転換して日本の再軍備と経済復興を進めることとしました。いわゆる「逆コース」政策です。当初の日本占領策に拘ったダグラス・マッカーサー連合国軍最高司令長官は更迭され、アメリカの新たな占領政策が始まりました(詳しい説明はここ)。

 逮捕され、巣鴨プリズンに送られた日本人の中に文官が2人いました。革新官僚の有力者であった岸信介と外務官僚から外務大臣や総理大臣を務めた広田弘毅<ひろたこうき>です。しかし、アメリカに宣戦布告した東条英機内閣のときに商工大臣になっていた岸は、正確には既に官僚の範疇を脱し、政治家であったという意味では、文官という指摘は当たっていないかもしれません。広田がその後極東軍事裁判所に訴追され絞首刑を宣告された(裁判官の中には無罪や禁固刑を主張する者もいた)のに対して、岸は、極東軍事裁判所への訴追を免れます。

 岸が訴追を免れた理由について諸説ありますが、物的証拠はなく、確たることは何も分かっていませんし、本人も何も述べていません。岸自身は、膨大な回顧録(岸信介著『岸信介回顧録―保守合同と安保改定』〈1983年〉)を書き遺していますが、戦前のことについては、自分が東条首相に対して行った「サイパンを最終防衛戦にすべし」という進言が受け容れられなかったという事実のみを記載しているのみです。満州で大活躍して関東軍にいた東条(当時参謀長)に近しくなり、商工大臣にまでなったまでの経緯、つまり岸がどのようにして政治家になったのかという半生については一切の記述がありません。そして、東条内閣時代にサイパンに関する進言以外に、どのような存念に基づきどのようなことを行ったかということについても一言の言及もありません。

 岸は、投獄されて3年3カ月後の1948年暮れに釈放されます。そしてやがては総理大臣に就き、1960年の安保(日米安全保障条約)改定に職を賭して全力を尽くすことになります。


岸信介と佐藤栄作
巣鴨プリズンからを釈放されたその足で実弟の佐藤栄作官房長官(後に首相)(右)のもとを訪ねて一服する岸信介(左)
〔画像出典:Wikipedia File:Kishi and Sato.jpg〕

 東京帝国大学法学部の最優秀卒業生の一人であった岸が、教授の制止を振り切って当時二流と言われた商工省に入り、出向させられた満州で大活躍して(計画経済体制の大実験を行いました)、東条を初めとする陸軍官僚や新興財界人との結びつきを深め、帰国して東条の引きで商工大臣となり、しかし東条と対立して内閣を総辞職に追い込み(岸自身の決死の行動というより、東条を下ろしたい陸軍内勢力の代理人となったのでしょう)、そして総理大臣にまで返り咲き、安保条約改定を実現します。このような、岸の官僚から政治家に到る一連の個人史の中に、岸の本質が見えるように思えます。

 つまり彼は、官僚になろうとして官僚になったのではなく、初めから国権を束ねる立場に就くことを目指したのでしょう。これを、その他多くの衆議院議員や参議院銀、或いは貴族院議員と一緒にして、政治家と言う範疇に入れていいものかどうか? 岸はよく「昭和の巨魁〈きょかい〉」の1人と呼ばれますが、その方がずっと収まりがいいように思えます。

 これとある意味で似通った経歴を辿った男がもう1人います。加藤高明〈かとうたかあき〉です。加藤も帝国大学の前身である東京大学を首席で卒業しながら官僚にはならず、三菱に入り岩崎弥太郎の長女と結婚し、そしてやがて政界に入り第24代内閣総理大臣となります(1924年)。これら2人は、最優秀な成績を残して卒業し、大蔵省官僚になることを敢えて選ばず、そして総理大臣になりました。


外務大臣時代の加藤高明
外務大臣時代の加藤高明
〔画像出典:Wikipedia File:Takaaki Kato.jpg〕

 加藤は、一方では、すべての男性の参政権を認める普通選挙法を成立させ(1925年)、他方で、反政府運動や労働運動を取り締まる治安維持法を成立させる(同年)というダイナミックな施策展開を行っています。或いは、陸軍軍縮を進める一方で学校教練を始めるという、やはり2つの異なった方向を向いた施策を同時に実行してバランスを採るという巧妙な行政を展開しています。さらには、日ソ基本条約を締結し革命後のソ連との国交を樹立させたりもしています。つまり、総理大臣としての存在感が大きいのです。但し、外務大臣時代に対華21カ条要求を行う(第1次世界大戦中の1915年)という大失態を演じているので、その分は彼の業績から差し引いておかなければならないでしょう。


岸信介と佐藤栄作
アメリカ大統領ロナルド・レーガン(左)と中曽根康弘総理(右)(1986年キャンプ・デービッド)
〔画像出典:Wikipedia File:Ronald Reagan and Yasuhiro Nakasone 19860413.jpg 〕

 これらと似ていますが、一風違った経歴を持つ東京帝国大学法学部卒業生がもう一人います。1980年代に5年の長きにわたって総理の席に座り続けた中曽根康弘です。中曽根は大学卒業後、大蔵省でなく内務省を選び、しかもその後志願して海軍に入り、終戦とともに内務省に復帰するという異色の経歴を持っています。そして、彼の場合は、東京帝大在学中や高等文官試験の成績が優れていたという記録はなく、東大法学部卒の優等生という分類からは外れます。しかし、その彼が、1980年代の果敢な行政改革(国鉄、電電公社、専売公社及び日本航空の民営化)を実現し、或いはロン=ヤス関係(ロナルド・レーガン大統領=中曽根康弘)をアピールして外交での日本の地位の向上を果たし、且つ防衛費1パーセント枠を撤廃するなど、その内容の評価は分かれるとはいえ、政治家と呼ばれるにふさわしい仕事をしています。


宮沢喜一(1993年)と福田赳夫(1951年)
福田赳夫(左、1977年)と宮沢喜一(右、1993年)
File:Takeo Fukuda 1977 adjusted.jpg(福田赳夫)〕 〕

 この他に、東京帝大法学部卒業生で大蔵省官僚を経験して総理大臣になった者が2人います。1人は、福田赳夫〈ふくだたけお〉であり、もう1人は宮沢喜一〈みやざわきいち〉です。そしてこの2人のふるまい方は、先に挙げた3人の総理とは明らかに違っています。一言で言えば、優秀でそつがありません。そして、大胆な政策転換はしませんでした。この2人は、大蔵省官僚代表という立場を貫いたと言えます。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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