小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

16. 東大法学部と政府官僚


〔2〕戦後の官僚たち

(2) 政高官低の時代

 太平洋戦争が終わって、軍官僚はいなくなりました。しかし、だからといって、大蔵省官僚の天下は直ぐにはやってきませんでした。そのことは、新憲法の下での歴代総理の出身大学を見てみれば分かります。1940年代の総理大臣5人のうち4人は東大法学部卒、そして1950年代の総理大臣3人のうち2人、そして1960年代の総理大臣2人のうち1人もそうです。要するに、戦後四半世紀の間、日本の総理大臣は、おおむね東大法学部の卒業生が務めたと言っていいのです。それらの多くは官僚出身ですが、しかし大蔵省出身者は1人もいません(下のグラフを参照ください)。

出典:小塩丙九郎作成

 例えば吉田茂は外務省、岸信介は商工省(後の軍需省)、佐藤栄作(岸の実弟)は鉄道省の出身です。1960年代までの総理大臣は、東京帝大法学部の卒業生ですが、大蔵省出身でなく、従って、大蔵省の省益に拘らなければならない理由はありません。政策の大元は、アメリカ占領軍に当初握られ、その後も商工省出身で当時の通産省にシンパシーを強く感じたであろう岸の下で産業復興政策が採られます。大蔵省は、いわゆる「護送船団方式」の考えに基づき戦時期に強化された施策融資(国の資金を使った長期低利融資)体制を採るのですが、しかし、通産省に対して優越した体制を組むまでには至りません。アメリカ政府とそれと気脈を通じた日本の総理大臣が協力した下での、今とは違う強力な指導体制の下で、後輩である大蔵省官僚は国策に従って行政を行い、そのため、省益は今ほど卓越して追求されることはありませんでした。いわば、政高官低であったと言っていいと思います。

 そのような状況の中で、1950年代から1960年代に到る戦災復興と高度経済成長が実現されます。また、高度成長政策を明言した「所得倍増計画」は、東大法学部に対抗する京都大学法学部卒の池田隼人<いけだはやと>の下で策定されています。東大法学部卒の大蔵省官僚が独り活躍するという状況はできませんでした。大蔵省出身の経済学者である野口悠紀雄(東京大学工学部卒業)は、戦後の経済復興体制は、1940年代にあった統制経済体制の書き写しであるとして、現在もなお「1940年代体制」にあると分析し(野口悠紀雄著『1940年体制−さらば「戦時経済」』〈1995年〉による)、それを大蔵省官僚と通産省官僚が共同して主導していると主張しています。


外務大臣時代の加藤高明
池田隼人(左)とジョゼフ・ドッジ(右)(1949年)
〔画像出典:Wikipedia File:Hayato Ikeda meets Joseph Dodge.jpg〕

 しかし、以上述べてきた実際の戦前の産業史は、大蔵省官僚や商工省官僚の主導によるものでないということを示していますし、そして戦後もそうでもありません。何故なら、戦後の経済復興の大勢は、アメリカの徹底した日本援助策にあるのであって、いわゆる護送船団方式の果たした役割は、一般に喧伝されるほど大きくもないと考えるからです。このことについては、別の章(ここ)で詳しく説明している通りです。

 さらに付け加えれば、太平洋戦争の降伏文書調印直後にアメリカ軍が実行しかけた(円に取って代わって通貨の役割を果たす)軍票の発行を阻止したのは外務省官僚(岡崎勝男〈当時終戦連絡中央事務局長官;東京帝国大学経済学部卒〉がリチャード・マーシャル少将に布告の実施を延期させ〈降伏文書調印当日〉、重光葵外務大臣〈東京帝国大学法学部卒で外交官出身〉が岡崎を伴ってダグラス・マッカーサー元帥と死を賭して直談判した〈翌朝〉)であり、終戦後に発生したハイパーインフレ(超高率のインフレ)を収めたのは、アメリカからやって来たジョセフ・ドッジです(その詳しい説明はここ)。

 ドッジが強烈な財政金融引き締めを指導したためにハイパーインフレは収束しました(1947年に年率193.4パーセントであった物価上昇率が、1950年にはマイナス1.8パーセントになりました)が、その後遺症で不況となり、日本人はそれを半分怨嗟<えんさ>の意味を込めて「ドッジ不況」と呼びました。しかし、この経済安定策がなければ、日本経済はさらに破綻の度を強めていたことでしょう。ちなみに、この不況は1950年6月に勃発した朝鮮戦争に向かう日本占領アメリカ軍の日本の産業界に発注した軍事特需により克服されています。つまり、日本をアメリカ軍の兵站基地にするというアメリカの目論見は奏功し、そしてそれを疲弊しきっていた日本の産業は糧としました。そして、これら終戦直後の超緊急経済対策を行うについて、大蔵省官僚は、命懸けの仕事をしてはいないのです。

 1970年代以降、戦前期の官僚を経験した東大法学部卒の総理は出なくなり、東大法学部卒の総理の割合もおおいに低下しました。1970年代から1990年代に到るまでの10年期には毎期1人の東大法学部卒業生の総理大臣しか出ず、そして2000年代に入ってからは1人もいなくなりました。総理大臣の席は、東大卒官僚出身者から、政党政治家に譲られました。そしてそれとともに、総理大臣の指導力は弱まりました。政党政治家は、誇り高い東大法学部卒の政府官僚たちを指揮する力が弱かったと言うしかありません。そして、このことは、1970年代と1990年代にそれぞれ一人ずつ出た東大法学部卒大蔵省出身の総理大臣にも共通して言えそうです。彼らは、どちらかと言えば大蔵省の省益を優先し、他省の官僚を強引に指揮するだけの迫力に欠けていました。政策は統一性を欠き、大胆な政策転換は行われなくなりました。例外と言えば、先に挙げた中曽根康弘のみです。

 2013年暮れに発足した官僚出身でない安倍晋三率いる内閣(第2次安倍内閣)は、一見、それ以前の内閣よりも指導力が大きくなっているように見えます。異次元の金融緩和策と称して行っている日本銀行によるマネタリーベース(発行通貨総額)の大拡大と、赤字国債の買い取りは、一部の経済学者たちには大胆な政策転換として理解されています。しかし、当初提案された中の重要な施策である経済・産業構造改革には手が付いていません。そして大蔵省官僚主導で経産省官僚が連携する為替操作を含む市場管理についても、その行政方策を扱う行政組織構造に一切の変更はありません。小塩丙九郎は、第2次安倍内閣は、先に述べた戦後の総理大臣と同等ほどの大胆な行政組織指導や基本的政策改革を行っているとは、考えていません。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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