小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

16. 東大法学部と政府官僚


〔2〕戦後の官僚たち

(3) 大蔵省官僚の特質

 1940年代から1960年代にかけて、総理大臣の多くは、東大法学部の卒業生でした。それが1970年代には福田赳夫1人になり、そして1980年代にも1990年代にも1人、さらに2000年代以降は1人もいなくなってしまいました。このことは2つのことを意味しています。

 1960年代までは、東大法学部卒の有力な総理が、同じく東大法学部卒の「官僚の先輩」として権威をもつとともに、これらの総理大臣の多くは、大蔵省以外の官僚出身(5人)或いは元弁護士(2人)であり、予算の企画と執行を握り権限が大きくなりがちな大蔵省との力のバランスを保っていたので、省益がぶつかりがちな官僚の利害を調整しつつ強い指導力を発揮して、国の性格を明確にした政策を遂行していました。しかし、1970年代以降は、東大法学部卒の総理大臣が減り(1970年代及び1980年代それぞれ1人、1990年代以降なし)、或いはその数少ない総理大臣もそれまでとは違って大蔵省出身が主となったことから、権限が大蔵省に集中するようになる一方で、各省の省益の主張がぶつかり、骨太の政策は採れなくなり、それまでに確立していた有力な既得権益間の調整をすこぶる限られた範囲でだけ行うようになりました。

 1960年代までの東大法学部卒の総理大臣のうち1人も大蔵省官僚ではなかったということに、意味があると思います。これら総理大臣になった者は、何れも卒業当時優秀な成績を残した者でした。そしてそうであれば、通常大蔵省に進むことが常識でした。例えば、岸信介が卒業後大蔵省にではなく、当時は二流官庁とされていた商工省に入ったことについて多くの者が驚き、そして教授は叱責までしたと言います。しかし、東大法学卒首席で大蔵省に入ったとしても、同じ様な実績を持つ先輩や同僚はごろごろいて、自分の評価が定まるまでには時間がかかるでしょうし、そうなってもその大蔵省を圧倒して牛耳ることは困難です。

 しかし、大蔵省以外に入れば若いうちから枢要なポストを与えられて才覚を伸ばして、その官庁を意のままに動かすようになることもそう難しいことではありません。そういった、野心と才気に溢れていることが1960年代までの東大法学部卒の総理大臣に共通する点です。彼らは入省当時から、将来政治家になり、或いは総理大臣を目指すということが胸の中にあったでしょう。勿論、そのようなことを口に出す不用心はしなかったでしょうから、後世にそのことを証明することは難しく、小塩丙九郎の観測も推測の域を出ることはできませんが、、、。

 吉田茂が選んだ外交官と言う職業は、それでも当時からエリートであったでしょうが、かと言って、国際派が国内派ほどに重んぜられないというのは当時から変わりません。岸信介と佐藤栄作という兄弟が、ともに商工省と鉄道省という二流官庁を選んだのには、彼らによほどの覚悟と目算があったに違いありません。或いは、中曽根康弘は、内務省を選んでいますが、内務省入省後もそのまま昇進することを選ばず、海軍軍人になり、太平洋戦争終結とともに内務省に復帰するという誠に異色の経歴を持っています。彼もやはり、相当なリスク・テーカーであったと言えます。

 逆に言えば、東大法学部で主席クラスの優秀な成績を収めて大蔵省に入った官僚と言うのは、彼らのような大きな野心はもたず、すこぶる安全に自分の立身出世を目指した者たちであると言えます。東大法学部の能吏を育てるという方針に従って学習した彼らは、権力志向ではありますが、それは大組織に守られた上でのものであって、自分独りがそのトップに立ち、或いは創造的な政策を企画・実行するということではありません。東大法学部卒の優等生たちは、既存社会構造を維持したいと思い、リスクのある大変革を嫌います。そしてそのような官僚が、陸海軍官僚に壟断〈ろうだん〉されていったというのが支那事変・日中戦争から太平洋戦争に到る歴史です。

 そう考えれば、大蔵省官僚たちが、太平洋戦争について自分たちに責任はないと考えることについては、一理あるのかもしれません。とは言え、日本と言う国をつぶすことになった官僚主導の国家社会主義と言う体制についての科学的な評価を行わず、軍官僚から大蔵省官僚に権力者を変えただけで戦後日本を運営していってもいいと考えることについては、小塩丙九郎は賛意を示すことはできません。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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