小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

16. 東大法学部と政府官僚


〔2〕戦後の官僚たち

(4) 財務省官僚の時代

 そのようにして、1970年代以降に東大法学部卒大蔵省官僚たちの天下が訪れるのですが、しかしそれには苦い味も含まれていました。1960年代から1980年代まで長く続いた経済の高度成長は、1991年に突然終わりを告げます。そして、財政とともに金融政策を併せて差配していた大蔵省がバブルの発生をうまくコントロールできず、さらには余りに急激にバブル崩壊対策を採ったことを経済運営の失策であるとして多くの者から判定され、そのことが遠因となって、後に(2001年)に財務省と金融庁に解体され、歴史ある大蔵省の看板を下ろすところまで追い込まれます。人事の一体性が侵されているわけではない金融庁の独立は、ただ名目のためと言っても、やはり組織が一つでなくなったことが、彼らの誇りを大きく傷つけたことに間違いはありません。

 大蔵省官僚と通産省(軍需省解体後、以前の商工省に近い形で設立された)官僚は、1940年代後半から1970年代に到るまで、アメリカの絶大な経済支援策の下で、一種の計画経済政策を行ってきました。それを表したのが、「護送船団方式」という言葉です。これは、大手企業にカルテルを組ませて競争をなくした上で、特定の産業や個別企業を優遇して施策金融(つまり国の資金を使った長期・低利の資金融通)により事業資金を供給したり、或いは補助金により援助するということであり、そのことは、戦前と同様に、これらの経済官僚たちが近代資本主義経済を運営する経験を蓄積することはなかったということを意味します。

 そして、1980年代になってアメリカの経済援助体制がなくなり、自力で近代資本主義経済体制を運営する必要が出たのになお、それまでの計画経済体制を堅持しようとしたため、余剰金の横溢による資本市場の歪みに対応する能力を欠いていたのです。そのため、既に述べたような大きな市場の混乱が起こり、あるいは、1990年代以降経済成長が停止したのですが、それでもなおこれらの経済官僚たちは、計画経済体制を変えようとはしません。その最大の根拠は、官僚主導体制を維持したいという権力欲であると思います。

 これは、日露戦争(1904年-05年)を戦い、或いは、航空機を初めとする機械力が決定的に重要であることを示した第1次世界大戦(1914年-18年)を横目で見てなお、当時の主流であった歩兵を率いる立場にある陸軍官僚が、砲兵を率いる立場にある軍官僚に主導権を譲ることを嫌って、専ら派閥重視の立場から陸軍の基本方針を機械主義に転換せず、白兵主義を死守しようとしたことと、その考え方も、或いは行動様式も、まったく同じであるのです。こう言えば、小塩丙九郎がなぜ陸軍武官を官僚と呼び、そして官僚が権力を握り続けることが、その国の国民にとってどんなに危険なことであるのか、と言うことが理解されると思うのですが、若い皆さんは、どう考えるでしょうか?

 東大法学部卒財務省官僚の他省に対する優越は強化されたのですが、一方でバブル崩壊についての政策執行の不手際と組織解体により被った傷も浅くはありませんでした。しかし、アメリカと違って、政策企画や執行を自主的に行うことを支援をする自前のスタッフやシンクタンクを持たない政党政治家がなる総理大臣の政府官僚を指揮する能力は高くはありません。総理が特定の学者等を官邸スタッフ等として活用することも多くなりましたが、組織的な体制という意味では、アメリカ大統領のそれにはるかに及びません(アメリカのシステムについての詳しい説明はここ)。だから、財務省官僚の政策主導は続きます。

 2013年暮れにスタートした第2次安倍(晋三)内閣は、“異次元の金融緩和”と称して、マネタリーベース(発行通貨総額)の急速な拡大と、日銀の厖大な額にのぼる国債買い取りという財政・金融両面での拡大策を行っていると言われ、一部の経済学者からは大胆な政策転換であると評価されています。しかし実際に起こっていることは、それまでの青天井の財政拡大、つまり政府歳出の増額を続けているのみで、経済構造改革につながる施策はまったく行われていません。

 見場は派手なのですが、それは内閣の演出が優れているということであって、本質的な政策転換は何一つとして行われていません。全省庁間の縦割りルールに一切の変更はなく、省庁を超える総合的施策企画・実行組織ができたわけでもありません。だから、財務省或いはその他省庁の官僚との衝突といった事態が発生しないのです。本質的に財務省官僚による計画経済体制維持はなお脈々と続いている、というのが小塩丙九郎の理解するところです。それが具体の市場でどう表れているのか、と言うことについは、第18章『日本別の第3の大経済破綻』(ここ)で詳しく説明しています。

 思えば、明治維新を成し遂げた立役者の一人である山県が、結局は、明治維新から3四半世紀後の日本の敗戦の引き金を引いたことになります。民衆“革命”ではなく、雄藩の若い下級武士たちによる一種の集団“クーデター”であった明治“維新”は、結局のところ、幕府官僚から軍官僚への権力の移行であり、日本のあり様の根本を半分ほども変えたわけではなかったということです。

 この維新クーデター説を唱えたのが東京帝大法科大学教授の美濃部達吉の「天皇機関説」であり、1930年代から40年代にかけての国家統制体制の根拠は、天皇の由来を神話にまで遡〈さかのぼ〉る穂積八束〈ほづみやつか〉などの「天皇主権説」であったのですが、残念なことに、美濃部は国民主権を基礎とする近代資本主義社会の構築と言うところまでは思い至ってはいません。そして近代資本主義に最も近づいた海軍大佐の水野広徳は、言論界の外に置かれ続けたことも別のところ(ここ)で紹介したとおりです。


美濃部達吉と穂積八束
美濃部達吉(左)と穂積八束(右)
〔画像出典:Wikipedia File:T Minobe.jpg(美濃部達吉)、File:Hozumi Yatsuka, taken in August 1912.jpg (穂積八束)〕 〕

 そうして、“維新”の賞味期限は、1世紀にははるかに届きませんでした。さらに言えば、1945年の敗戦以降の日本の改革も、民衆が自ら達成したものではないということは、やはり、大きなさらに解決すべき問題を解かずに抱えたままになっている、というのが小塩丙九郎の考えです。4世紀にわたって、〔幕府官僚→軍官僚→大蔵・財務省官僚〕という具合に権力が移行され、その何れもがサステナブル(持続可能)な社会構造を構築することに失敗したということは、明らかに官僚主体の権力が機能せず、それとは違った新たな権力構造の開発を日本人は必要としているということを意味しているのだ、と小塩丙九郎は考えています。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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