小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

15. 市場の不自由化を進めた戦後体制


〔3〕戦後のベンチャー

(6) ヒットラーより統制的な自動車産業行政

 この項では、日本の自動車産業の発展のあり様とその意味について、改めてその歴史を見ながら詳細にわたって説明していきたいと思います。そこに、戦後の日本の高度成長と呼ばれた産業発展がどのようになされたのかということとともに、優良な企業とは一体何かということについて重要な論点がはっきりと表れているからです。

 自動車産業は、現在の日本産業界の中で唯一と言っていいほど活力に満ちた分野です。この自動車産業は、戦後の厳しい時期を独力で生き残り、その後急成長を遂げたのか、或いは政府の強力な戦後の経済支援がその後の自動車産業の発展をもたらしたのか? これについては、経済学者の中でも意見は分かれています。

 経済学者の山崎修嗣は、その著書『戦後日本の自動車産業政策』(2003年)の中で、1972 年の商務省報告や,国際政治学者のチャルマーズ・ジョンソンは、官民一体のもとで日本経済の発展を産業政策が牽引してきた例として自動車産業があると言い、それに対して経済学者の武藤博道や影山嬉一は、官僚の統制に対する民間企業の対立という図式のもとで,産業政策の効果は無視できるものであり,自動車産業の発展は,企業のバイタリティによるものであるとしていると、分類していいます。以下、その点について、山崎の主張する中間的理解も参考にしつつ、できるだけ客観的な歴史解析に努めたいと思います。

 小塩丙九郎は、結局通産省官僚による産業育成策が有効であったのは、敗戦直後の産業幼少期において、国内メーカーが生き残れるように貿易障壁を高く保ち続けたことと、技術開発などについて、融資、税制を通じて支援する体制を維持し続けたことだ、と考えています。そしてそれ以外の、個別具体の産業のあり方についての政策や行政指導は、超小型車についての新規企業参入を促進したということ以外に、ほとんど見るべき成果を残していません。

 例えば、トヨタの力強い企業力の源泉は、通産省官僚指導に従わず(積極的にと言うよりは、フォードの消極姿勢により、結果的にそうなったと言うべきかも知れませんが)、自己技術開発方針を貫いたことにあります。或いは、トヨタに次ぐ日本第2の世界規模メーカーの誕生は、通産省官僚の少数精鋭主義に反して、本田技研工業鰍ェ乗用車産業参入を無理やり果たしたことにより実現しました。

 通産省官僚による自動車産業育成策が機能しなかった一番の理由は、通産省官僚が近代資本主義体制の構築ということに関心を示さず、徹底して政府官僚主導による計画経済体制の実現を追求する姿勢を変えようとはしなかったことにある、と小塩丙九郎は考えています。1946年にマルクス経済学者の有沢広巳を中心とした学者と官僚からなるグループ、戦後経済調査会、がまとめた、戦後日本では統制経済体制を維持すべきだという結論(その詳しい説明はここ)を、政府官僚が共有し続けているのです。

 これでは、産業立ち上げの未成熟期には政策効果はあっても、一定程度以上の産業発展が実現した後では、政府官僚の介入によるプラスの効果はなく、むしろ産業界に混乱を生じさせることにしかならないのです。そして幸いなことに、自動車産業が輸出産業として世界市場を席巻するまでに成長したことから、通産省官僚による産業統制の利きが急速に弱まったことが、日本の自動車産業の大発展を可能としました。アメリカが主導する世界の近代資本主義体制の力強さと正当性の前では、計画経済体制主義は、まことに無力だったのです。しかし、このような乗用車産業の成功があっても、未だに通産→経産省官僚の意識は変わっていない、というのが実情です。

 第2次大戦前のアメリカの自動車産業が世界を圧倒していた時期にあって、ドイツのヒットラー政権も自国の自動車産業の進展、特に国民車フォルクスワーゲンの成長に力を尽くしたのですが、ヒットラーは既にドイツ内にノックダウン工場をもち、ドイツ市場で高いシェア(1929年には外国車の市場シェアは40パーセントに達していた)をもっていたフォードをドイツ市場から追い出そうとせず、逆に「成長することを認め,むしろ『飼い馴らす』ことを選んだようである。即ち、極端な外貨不足のドイツにとってlocal content率(国産化率;小塩丙九郎註)が80%を越えるアメリカ系企業は、重要な輸出産業なのである。実際、アメリカ・フォードもドイツ・フォードの輸出促進に協力するなど、Hitler の目論みは成功したと言えよう」(吹春俊隆著『日米欧経済摩擦:自動車産業』〈1990年、internet掲載pdf〉による)と評価されるのです。 


戦前のフォルクスワーゲン(VW82型)
〔画像出典:Wikipedia File:VW Typ 83 vr.jpg 〕

 これに対して、似たような状況にあった日本では、1935年に軍官僚が主導して自動車製造事業法を制定して、日本人の株所有率が5割を超えない外国企業による.自動車製造を認めないことにしました(但し、例外として、それまでの生産台数を超えない限りにおいて日本フォードと日本GM〈何れも、株100パーセント米社保有〉が国内で生産し続けることを認めました)。その上で、軍官僚は、日本フォードの古河、三菱両自動車との、日本GMの日産との提携交渉を干渉して潰してしまいました。それでもなお、日本の乗用車が技術的に劣り品質が貧弱であり十分な競争力を持てなかったので、輸入関税を5割から7割にまで上げてまでいます(前述吹春論文による)。

 ヒットラーの外資容認政策の下でも、オペルやフォルクスワーゲンなどのドイツの自動車企業は育ったのであり、外資を規制することだけが国内自動車産業を育成することに有効なわけではないということを示しています。しかし、1950年代以降の日本の通産省官僚は、戦前のドイツの自動車政策には学ばず、戦前の軍官僚と同じ態度を採り続けたのです。日本の政府官僚が、19世紀以降、一貫して先進国の中で特異な態度を持ち続けたことが、際立っています。

 1971年に、自動車産業は自由化され、外資についての規制は撤廃されました。多くの者が政府の自動車産業育成支援策はもはや不要になったと思いました。経済学者の中には、これで自動車産業の保護育成策は終焉したという見解を示した者が多くいました。それでも、通産省官僚は自動車産業に対する関与を止めず、完成車メーカーより部品メーカーに興味の重点を移したのです。

 部品メーカーは完成車メーカー依存型の経営形態から脱皮し(自主的生産体制)、完成車メーカーと部品メーカーが各々自己の責任分野を確立した上で協力する(水平分業体制)、さらに、単品生産の専門メーカーからユニット化を基礎とする総合部品メーカーに進化すべきだと言うのです。そして、独立部品メーカーを中心とした企業グループまで結成させ、共同研究所までつくらせました。余計なおせっかいと言うしかありません。

 通産省官僚は、政府を頼るか弱い企業群を必要とします。いなくなりそうになれば、無理にでもつくりだすのです。そうして、通産省官僚の存在意義を殊更に強調します。日本が近代資本主義体制には進まず、計画経済体制に留まり、或いは戻ることを始終画策します。これが、日本が欧米先進国の人たちの目に特異な国と映る理由です。通産省官僚が活躍すればするほど、日本の多くの産業は虚弱体質だということにされ、市場の自由は失われます。それが、今も続いています。日本の官僚の考えと行動の様式は、19世紀末以降21世紀の現在に至るまで、誠に一貫しているのです。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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