小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

15. 市場の不自由化を進めた戦後体制


〔3〕戦後のベンチャー

(5) 戦後の自動車ベンチャー(後編)

 通産省官僚による乗用車産業施策が無用であったと言うのではありません。厳しい交易条件を維持して国産車開発の時間を稼いだことや、融資、関税を含む税制についての優遇措置が、日本メーカーの技術開発を支援した効果をもったことは明らかであり、その意義は大きいと素直に評価すべきです。ただその手法が、戦前、商工省官僚が嫌った軍官僚が成立させた日本フォードと日本GMの生産拡大を禁止した自動車製造事業法(1936年)に酷似しているのは皮肉なことです。

 しかし、今考えてみれば、通産省の自動車産業育成策は、既にこの頃から、有効性を失い始めていたと言っていいでしょう。なぜなら、この後、通産省の自動車産業育成策は、自動車産業界全体の、或いは個々の自動車メーカーの成長戦略との間におおいに齟齬〈そご〉を生じ始め、両者間のギャップは開き続けたからです。

 通産省の躓〈つまづ〉きがはっきりとしたのは、「国民車構想」についてです。ことは、1954年に始まります。外国メーカーとの技術提携策が実行されて間もない1954年に、通産省官僚は、輸出重点策とそのための産業構造再編計画を策定し、その一環として自動車産業の再編計画を言いだしました。実際には、通産省が正式に公表するのではなく、通産官僚の机上にあった書類がマスコミに漏れたという形で世間に伝えられました。

 日本の自動車産業界をトヨタと日産の2社体制に糾合し、専門部品メーカーをできるだけ独立させながら育成し、ヨーロッパに倣った国民車構想を実現すべきだと言うのです。そして、国民車についての実に細かな達成目標仕様を示しました。それは例えば、時速100キロメートル以上、1万キロメートル以上の耐久走行性能をもつこと、60キロメートル/時の平坦道路走行時の燃費が30キロメートル/リットル以上であること、定員4名(うち子ども2名)で車体重量400キログラム以下、エンジン容量350ccから500ccであることなどを含む11の技術条件と、さらに月産2,000台の時に販売価格25万円と言う営業条件までをも含んだ、実に詳細なものでした。イタリアのフィアット、フランスのルノーやシトロエンと同じようなものをつくれば国内市場でも売れるし、海外へも輸出できるはずだと言うのです。

 つまり、こういうことです。乗用車メーカーは、トヨタ、日産の2社のみとする、部品メーカーは車体メーカー従属のものより独立専門部品メーカーを育成する、超小型車をつくって世界市場に進出するために、国と乗用車産業界が一致協力して当たるのが国益となる、というのです。まさに、戦前の商工省官僚の夢が、時代を越えて湧き上がってきたのです。彼等はできることなら、自動車産業国営化ができればいいとまで心中考えていたことでしょう。実際、戦前に商工省官僚は、自らが中心となって軍用トラックを開発した実績をもっていましたし、ドイツのフォルクスワーゲン社は1961年まで国営でした。

 しかし、今度は、自動車メーカー群が強い反意を示しました。トヨタも日産も、国内市場やアジア市場を念頭に置いた超小型車を開発できるまでに国内或いはアジアの市場は育っていないので、アメリカのメーカーとの競合を避けた優れた性能をもつ小型車を急いで開発し、アメリカ市場を狙いたいと考えていました。通産省官僚の言う超小型車では、日本の市場開発にも役立たないし、性能も世界と競合できる水準に上げられないと主張しました。

 トップメーカーから思わぬ反発を受けて戸惑った通産官僚は、国民車構想を二輪、三輪メーカーなどに呼び掛け、これに呼応して鈴木自動車梶i1955年)、富士重工梶i1958年)、ダイハツ工業梶i同)、東洋工業梶i同)、そしてさらに1963年には本田技研工業鰍ェ超小型車市場にメーカーとして参入し(軽トラックT360)、1967年には初の乗用車(N360)を発売しました。もっとも、本田技研鰍フ自動車産業参入について、通産官僚が当初強く抵抗したことは、通産省官僚佐橋滋(重工業局長→事務次官)と本田宗一郎(ホンダ技研工業且ミ長)の対決話としてよく知られています(塩田渦潮著『昭和をつくった明治人』〈1955年〉より)。

ホンダ初の軽トラックT360と軽乗用車N360
ホンダ初の軽トラックT360(左)と軽乗用車N360(右)
〔画像出典: Wikipedia File:HondaT360.JPG 著作権者 韋駄天狗 (T360)、File:HondaN360.JPG著作権者 韋駄天狗 (N360)〕

 この構想の下に生まれたこれらを代表するのが富士重工業鰍フスバル360(1958年)であり(写真はここ)、これ以降、今日まで続く日本固有の軽自動車産業が始まりました。言い出しが非公式なものだったからか、通産省の採った育成策は、税制優遇策を採った以外にはないという質素なものにとどまっています。超小型車は、日本の軽自動車産業をつくりだすには貢献しましたが、しかし遂に今日に至るまで、世界市場開拓には貢献してはいません。世界に有力な超小型乗用車市場は、生まれなかったからです。

 結局、トヨタと日産は、超小型車製造は行わず、その2倍ほどのエンジン容量をもつ小型車製造技術の開発に邁進しました。「トヨタは、生産全工程にわたって加工の自動化・高速化をはかるとともに,大量生産方式へ移行するため,鋳造,鍛造,機械加工での新技術導入を行い,乗用車専門工場(元町)を完成させました。外車組立を行っていた日産は 1956 年に国産化を完了し, 1957 年にはオースチン1500cc、ダットサン1000cc の共用組立を可能にし、増産体制を整えた」(山崎修嗣著『戦後日本の自動車産業政策』〈2003年〉より)のです。

トヨペットとブルーバード
トヨタの主力車トヨペット(左)と日産の主力車ブルーバード(右)
〔画像出典: Wikipedia File:Toyota-crown-1st-generation01.jpg 著作権者 Creative Commons Attribution-Share Alike 3.0 Unported (トヨペット)、File:Datsun Bluebird (310) 001.JPG 著作権者 Tennen-Gas (ブルーバード)〕

 通産省の自動車産業育成策は、2社体制に集約するということについては失敗に終わり、皮肉なことに、新しい超小型車製造を進めることを通じて、新興自動車メーカーの参入を促し、国内乗用車市場の競争を活性化させるという効果をもちました。通産官僚の自動車産業政策の結果をどう評価していいのかは、難しいところであり、専門家の中でも意見はまちまちです。とにかく、通産省官僚の意図した構想と結果が大きく違っていたことだけは間違いなく、初期の国内市場保護政策が成功した当たりで通産省官僚は次第に手を控え始め、自由市場の成長に期待をかける立場に立つべきであったのではないか、と言うのが小塩丙九郎の意見です。

 このような試練を乗り越えて、通産省官僚は、さらなる自動車産業構造再編に取り組み続けました。その要点は、2つあります。1つは部品メーカーを大手車体メーカーの系列から解放して独立させることにあります。そしてもう1つは、車体メーカー自身を量産車グループ、特殊車グループ、ミニカー生産グループに分け、夫々2乃至3社にまとめるというものでした。ここで特殊車と言うのは、高級乗用車、スポーツカー、小型ディーゼル車などのことを言いいます。スポーツカー開発が、ドイツの自動車メーカーや後年のホンダ、さらにはトヨタの汎用乗用車技術開発と国際メーカーとしてのブランドの形成に大いなる効果を発揮したことはよく知られていることであり、量産車と特殊車を分離せねばならぬということは、官僚による机上の空論と言っていいことは、今の日本人なら誰もが理解するところです。

 そしてもちろん、この通産省官僚による業界再編構想は、自動車産業界に受け容れられませんでした。そして、部品メーカーの独立については、自身の実力により高度技術を蓄積した日本電装鰍竍鰹ャ糸製作所(照明器など)はその大手車体メーカーに対する位置を保ち続けていましたし、そうではない多くの部品メーカーは、トヨタ、日産を初めとする車体メーカーの下に系列化が進み、或いはその中での統合が進みました。2つの分野の何れの業界再編構想の実現についても、通産省官僚は失敗したのです。そして官僚に管理される不自由な国内市場よりは世界の自由な市場に活躍の場を見いだした日本の自動車メーカーは、世界規模の企業に育っていきました。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
©一部転載の時は、「『小塩丙九郎の歴史・経済データバンク』より転載」と記載ください。



end of the page