小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

15. 市場の不自由化を進めた戦後体制


〔3〕戦後のベンチャー

(4) 戦後の自動車ベンチャー(中編)

 しかし、ものごとはそう簡単には進みませんでした。肝心の国内市場は、依然としてアメリカ車を中心とする外国製乗用車に席巻され続けていました。これは、当時の彼我の技術格差の大きさを思い浮かべれば当然のことであると思えます。品質の悪さを補うために価格の安さを訴求しようにも、乗用車生産台数規模は小さく、それ以前に大量生産技術もまだ獲得していませんでした。フォードが1920年代に獲得していたベルトコンベアに乗せた大量一貫生産体制を、当時の日本車メーカーはまだ実現できてはいませんでした。戦前、日本にフォードが建設したノックダウン工場に設置されたベルトコンベアシステムを日産などが見て学んだではいたのですが、本格的なシステムを建設するまでには至らなかったのです。

 ずっと以前の1909年に、トヨタ自動車鰍産んだトヨタ織機鰍ヘ、アメリカのプラット・アンド・ホイットニー社の技師であったW・フランシスの指導を受けて、規格化を徹底して分業化に対応できる職工を訓練し、日本で初の大量生産方式を完成させていましたが(鈴木淳著『機械技術』〈2001年山川出版社『新体系日本史11 産業技術史』蔵〉より)、大量生産方式がそれよりさらに大きく発展するということはなく、トヨタ自動車鰍焉Aまだ自動車の大量生産方式を完成させるには至っていませんでした。

 この頃、輸入車に対しては非常に高い関税(1966年までは、35から40パーセント)がかけられていましたが、それでも十分な効き目はありませんでした。そして、エンジン、バネ、トランスミッション、その他個別自動車部品技術も世界水準に遠く及ぶものではなかったのです。先ず、足許を固めないことには、国内市場制覇も、ましてや海外輸出を構想できるはずもありませんでした。そこで、通産省官僚は、日本のメーカーが海外メーカーと技術提携を推進することを思い立ち、政府が完成車輸入拡大を阻止する貿易条件を維持し、資金、税制面での応援を提供するから、できるだけ望ましい条件で海外メーカーと技術提携することを促しました。そして、この政策は、自らも彼我の技術格差の大きさを自覚し、海外メーカーからの技術導入が不可避であると考えていた日本メーカーの意識とも合致したため、日本メーカー各社と欧米メーカーとの間の連携交渉が盛んに行われました。

 しかし、結果はすべてのメーカーについて一様ではありませんでした。日産自動車鰍ヘイギリスのオースチン社と、日野自動車鰍ヘフランスのルノー社と、そして新三菱重工鰍ヘアメリカのウイリス社(ジープについて)との提携にこぎつけましたし、その間有利な条件獲得を図る上で、強硬な通産省官僚の態度は、日本市場への参入を強く望むヨーロッパの自動車メーカーの牽制に大いなる効果を発揮しました。そのため、例えば販売事業を行うための外国資本投下は認めないという主張が通り、日本国内での乗用車販売は日本のメーカーが独占して行える体制が採れました。特に重要であったのは、外国メーカーが持ち込む自動車生産技術の大半を、日本のメーカーが短期間に譲渡されるという条件が実現したことです。

ダットサンとルノー
オースチンとの提携術を素に開発された日産ダットサン112型(左)と日野ルノー4CV(右)
〔画像出典:Wikipedia File:1956 Datsun Model 112 02.jpg 著作権者 Mytho88 (ダットサン112型)、File:4cvfront.JPG 著作権Creative Commons Attribution-Share Alike 3.0 Unported(ルノー4Cv)〕

 最大メーカーであるトヨタについては、フォードとの連携交渉が破談し、遂には独自技術開発を覚悟しました。フォードがトヨタとの連携について消極的であったのは、結局のところそれは、技術をトヨタに提供して将来の競争に不利な状況をもたらす可能性、つまり「技術が盗まれる」こと、を危惧したためと思われます。戦前のトヨタの第1号がGM車とクライスラー車の混合コピーであった(写真はここ)ことも影響したかもしれません。そして、アメリカ企業の日本市場要求の強さは、当時のヨーロッパ企業のそれより小さいものでした。

 そして、結局はトヨタの自主開発技術が日本国内のみならず、世界市場を圧倒することになったわけですから、通産省の日本メーカーと外国メーカーとの間の技術移転を目した連携促進政策が一体どれほど有効であったのかということについては、評価は難しいと思います。と同時に、トヨタの経営者と技術者たちの英断と努力には脱帽するしかありません。

 フォードがT型の大量生産工場としてハイランド・パーク工場を建設した翌年1911年の1年間の生産台数は、3万9,000台にのぼり、その12年後の1923年には、年間生産台数は、166万9.000台に達していました。やがてT型フォードの画一性が嫌われるにつれて、多様性をアピールしたGMのポンティアックとシボレーはT型フォードの生産台数を凌駕しました(1927年以降)。当時のトヨタの創業以来の乗用車累積生産台数は、ようやく5,000台を越えたに過ぎず、それまでのトヨタの技術の蓄積は、世界をリードするフォードやGMなどに比べるのもはばかれるという程度でした。にもかかわらず、トヨタのチャレンジ精神は萎えるということを知らないほどに旺盛であったのでしょう。

 戦前(1932年)にも、日産が横浜に新工場を建設する時に生産設備と生産システムの建設をアメリカの会社(グラハムページ社)に委託して、アメリカの遊休システムと生産システムのノウハウを買い取り、多数のアメリカ人技師から指導を受けたのに対し、トヨタは最初から社内に製鋼所を設け、工作機械を自製し、電装部品も内製化していました(牧野克彦著『自動車産業の興亡』〈2003年〉より)。当時の何れの国産の機械や部品・部材も乗用車を製造するにはとても満足のいく性能を提供できるものではなかったからです。トヨタの自主技術開発方針には年季が入っているのです。その分、自信と覚悟が大きかったのでしょう。

 ただ、戦前の日産が製造したのが輸入車と競合しない2人乗り小型車(ダットサン11型)であったのに対して、既に示したようにトヨタの最初の製品(トヨタAA型)は、クライスラーのデソート・エアフローのデザインと車体重量配分をほぼそのまま真似て、エンジンはGMのシボレーのものをコピーし、その他、変速機、ブレーキ、懸架装置など、当時最新のアメリカ製の乗用車の各種部分をつなぎ合わせて、寸法もインチ単位として、部品や車体は自家製とするというようなものでした。トヨタが日産に比べて、一方的に独創的であるというまでのことではないということは、日産の名誉のためにも付け加えて紹介しておかなければならないでしょう。

トヨペットとブルーバード
トヨタAA型(1936年、右)とダットサン11型(1932年、左)
〔画像出典:Wikipedia File:Toyota Model AA.jpg 著作権者 Chris 73 / Wikimedia Commons(トヨタAA型)、File:Datsun Model 11 Phaeton.JPG  著作権者 HKT3012 (ダットサン11型)〕

 こうしてトヨタの年間乗用車生産台数は、朝鮮戦争が勃発した翌年の1951年には1万台を超え、そして1963年には10万台を、さらに1968年にはついに100万台を超えるように増えていきました(下のグラフを参照ください。縦軸は伸び率が一定だとグラフが直線になる対数目盛りとなっているので、注意してください)。そして1966年には全自動車生産台数に占める乗用車生産台数の割合が5割を超え、世界の乗用車生産メーカーに育っていきました。

戦後四半世紀のトヨタの自動車生産台数
出典: トヨタ自動車芥P掲載データを素に作成。

 ここで、トヨタがアメリカの自動車メーカーの技術に依存せず、自力で生産技術を獲得していったことは重要です。官営釜石製鉄所建設、そして官営八幡製鉄所建設(1901年)の2度にわたって、政府官僚は日本人技術者を信用せず、外国人技術者に依存し、そして2度とも失敗し、その後も太平洋戦争敗戦に至るまで、日本の製鉄技術は一度も世界水準に達することはなく、結果日本の製鉄産業が輸出産業に育つことはありませんでした(その詳しい説明はここ)。

 トヨタは戦前より、アメリカの自動車生産技術を学びつつも、アメリカの技術者に頼ることなく、自社での技術確立に拘り続け、そして他社が外国メーカーとの技術提携に走るのを見ながらも、自社技術の確立を自力で成功させています。そしてこの技術力が、トヨタを戦後の最有力輸出企業に育てることとなりました。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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