小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

15. 市場の不自由化を進めた戦後体制


〔3〕戦後のベンチャー

(3) 戦後の自動車ベンチャー(前編)

 戦後復興期の日本の自動車産業は、国内市場が余りに貧弱であり、また技術はアメリカのそれに大きく劣っており、或いは部品を供給する専門部品メーカーもほとんどないような状態にあっては、軍用及び商用トラック・バスを僅かに製造するのが限界でした。

 日本最大の自動車メーカーであるトヨタ自動車鰍フ戦前→戦中→戦後復興期の自動車生産台数の推移を見てみると、日中戦争が始まり太平洋戦争に至る1930年代末から1940年代前半期に、自動車の年間生産台数はおよそ1万5,000台に達していますが、そのほぼすべてはトラックであり(下のグラフを参照ください。統計データは、トラックとバスの合計台数となっていますが、その大半はトラックの台数です)、乗用車は1937年に577台を生産したに過ぎず、1945年までの累計生産台数ですらも、2,000台を突破してはいません(1,912台)。

トヨタの自動車生産台数
出典: トヨタ自動車芥P掲載データを素に作成。

 戦前の日本の乗用車市場は、アメリカのフォードやジェネラル・モーターズにほぼ独占されていました。それらアメリカのメーカーは、部品を本国より持ち込んで現地工場で組み立てるというノックダウン方式を採っていました。日本には、世界水準に達する部品メーカーは、まだありませんでした。トヨタも、やむを得ず、すべての部品を内製せざるをえませんでした。

 トヨタの自動車生産台数は、敗戦から8年経った1953年にようやく戦前の水準を追い越しましたが、乗用車生産台数比率が5割を超えるのは、それからさらに13年経った1966年まで待たねばなりません。実は戦後、国内では乗用車自動車社製造を行うことについて、国論が割れていました。

 トラック工業については、アメリカの対日戦略が変更されたことにより、日本政府も積極的にその振興を図ることとし、1940年代末から1950年代初頭にかけて、国内の需要に応えるのみならず、輸出産業として発展させるための育成策が確立します。トヨタ、日産、いすゞなどの戦前からのメーカーは、1950年に勃発した朝鮮動乱によってもたらされた大量のアメリカ軍による軍事特需により大きな利潤を得て、負債も返済して長期的投資に耐えられるまで経営体力も回復もしていました。

 日本に共産圏封じ込め戦略の橋頭保〈きょうとうほ〉の役目を期待し始めていたアメリカは、日本がトラックを生産することについては、自軍の兵站〈へいたん〉を確保するために有用と考えていました。だから、日本がトラック生産を拡大することについて、日米両政府の間にも、或いは国内世論の中にも乱れはありませんでした。しかし、乗用車の生産を拡大すべきか、ということになると、議論は紛糾したのです。

 この時に、計画経済体制を築こうとしている経済学者たちの国際分業論が顔を出してきます。それぞれの国は、自国に与えられた資源や技術の水準、或いは産業発展の度合いにより最も生産性の優れた産業分野に集中投資すべきであり、そのような客観条件を無視して、やたら冒険的な産業開発投資を行っても、やがては失敗することになるというのが、その考えです。日本の乗用車産業開発を時期尚早と考える人達は、日本は、トラック生産とはケタ違いに大きな投資と格段に難しい技術を要求する乗用車生産に取り組む体制は採り様がないと考えました。

 しかし、国際分業という考え方の背後には、アメリカに対する遠慮、或いは恐れがあったという点は重大です。日本の政治家や経済学者以上に、アメリカの政府官僚、実業家、或いは経済学者たちは、乗用車産業こそが1920年代以降、アメリカの産業発展を支えた最も重要な基幹産業であると考えていましたし、その生産技術や世界市場への供給能力についても絶大な自信をもっていました。そしてそのアメリカ人たちは、戦後世界でヨーロッパ市場を獲得することが最優先課題と考え、マーシャルプラン(アメリカの国務長官ジョージ・マーシャルが提唱して始まったヨーロッパ復興援助計画)に基づくヨーロッパ先進国への経済援助の力を背景に、ヨーロッパの乗用車メーカーとの連携を進めてヨーロッパ乗用車市場を支配しようと画策していました。

 アメリカ人にとって、日本の乗用車市場は未だに誠に小さなものであり、日本の乗用車メーカーの技術・資本力は貧弱で、当面は、アメリカ製の自動車を完成車輸出、或いはノックダウン(現地組み立て)して売っていればいいと考えていました。既に、別の所(ここ)で示したように、アメリカは日本の戦後復興は、当面の繊維産業や、或いは引き続きその他の軽工業で行うべきだと考えており、そのために国内産業開発や貿易条件を整えることを優先して計画、実行しており、自動車や造船などの機械産業については、日本に優遇的な条件を整備したいとは考えていませんでした。或いは、1ドル=360円の単一固定為替レート設定は、むしろそれに反するものであったことは以前に述べた通りです(詳しい説明はここ)。

 アメリカの日本の乗用車産業育成についての否定的な態度を読みとっていた日本人の多くが、乗用車産業育成策は無用だと主張しました。その代表的なものは、日本銀行官僚、運輸省官僚、それに自動車輸入業者たちでした。このうち、運輸省官僚は、自らが管轄する鉄道を主体とした振興を望んでいました。戦中まで鉄道省で経営されていた全国の鉄道網は、1949年には政府出資により設立された公共事業体である国鉄(日本国有鉄道)が建設、経営することに体制が変更されていましたが、国の官僚の強い指導権限は残されていました。自動車輸入業者たちの主張もまた、自己弁護的なものであったことは言うまでもありません。

 日本銀行総裁一万田尚登〈いちまだ ひさと〉の「輸出を伸ばすといっても国際分業の建前に沿うべきで、たとえば日本で自動車工業を育成しようと努力することは意味をなさぬ」(〈『日本経済新聞』1950年4月13日〉)という発言が当時の経済学者たちの意見を代表するものでもありました。しかしこれは、「先見性のなさを象徴する言葉として残っているが、それは後世から見た批判で、大正から昭和初期までの思潮は国産乗用車無用論が根強かった」と擁護する者(牧野克彦:牧野著『自動車産業の興亡』〈2003年〉)もいるほどで、つまり当時の日本の風潮は、国産自動車開発は時期尚早という方が大勢であったということでしょう。

 この当時の通産省(通商産業省;1949年に商工省は改組されて、通産省・資源庁・工業技術庁・特許庁・中小企業庁に改められていました)官僚は、戦前・戦中期の軍官僚による頸木〈くびき〉から解放されて、野心的でした。しかし、彼らが新しい時代環境を活かして近代資本主義体制を追求できると考えたわけではありません。貧しい経済環境の中にあって、いまこそ経済官僚として計画経済体制の構築とそれに基づく政策立案・執行に全力に取り組めると勇んだのです。その意味で、戦前からの商工省官僚意識が根本的に変わったわけではありません。むしろ、軍官僚がいなくなって、今度こそ、自分たちの思い通りに仕事ができると小躍りしたい気分になっていたのであろうと推察されます。

 通産省官僚たちは、乗用車産業技術はトラックやバスを含む自動車産業技術全体の牽引役を果たすものであり、乗用車技術開発を進めれば、鍛造工業、プレス工業、精密機械工業などの様々な機械工業技術全体の底上げに繋がるものであるし、さらには、車体製造に必要な高性能鋼板製造技術が鉄鋼産業技術の開発にもつながると主張しました。武器製造を禁止された日本で、自動車産業開発は、日本の重工業開発の最も有効な牽引役を果たすと熱く訴えました。

 1950年から1953年まで3年間にわたって続いた朝鮮戦争は、日本の自動車メーカー群に高売上と高収益を提供しており、産業の体質も強化されていたことから、次第に日本国内の意見は乗用車産業開発論に傾いていきました。そして1952年に、国産乗用車育成策は、「乗用車の代替および増車による7カ年充足計画」という形で結実し、1957年に自動車生産台数を年間5万台として、その半数を小型車とすることが決定されました。アメリカの反対を誘発しないよう、アメリカの自動車メーカーとの競合を避けているとの印象を持たせることに腐心し、乗用車輸出先は、アメリカではなく、アジアなどの発展途上国を想定しました。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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